「なる、ほど」
そう言ったシグリィは、深く息をついた。
「シグリィ様!」
ずっとイドルの顔面に剣の刃をつきつけていたカミルが剣を引き、ふらついた若き主へ駆け寄る。
「ああ……うん。大丈夫だ……」
「全然大丈夫に見えませんー、シグリィ様」
生み出した灯火で部屋を照らしていたセレンが、灯火をのせた杖の先端をくるくると回した。あちこちで、人々の影が伸びたり縮んだりする。古びた壁を、今だけは美しく飾ってくれるようだ。
「本当に大丈夫だ」
支えようとするカミルを押しのけて、少年は片目をつぶった。この少年は……おどけたようにして、周りを安心させるのが得意なようだ。
ラディアはじっとシグリィを見つめる。
イドルを相手にしていたときとは別人のような少年。あの声の冷ややかさは、少し離れて見ていたラディアの肌にさえ突き刺さりそうだった。
恐れを感じた。
本当に、この三人組に任せてよかったのだろうか?
この三人組は、ますます恐怖を呼ぶのではないだろうか?
「―――」
ぶるっと首を振った。そんなことはいい。そんなことはいいのだ。
手鏡さえ取り戻せるなら、どんな犠牲を払ったっていい。たとえ、
己の命でも……
「そんなに怯えなくても大丈夫ですよ、ラディアさん」
急に名前を呼ばれて、ラディアはびくっと震えた。
シグリィは苦笑し、
「ああ、参ったな。少し力が抜け切れていない……声が勝手に聞こえてくる」
ラディアは愕然とした。自分の声まで聞こえているのか!
「そんなに深くまで潜ったのですか?」
とカミル。またふらりとした少年を支えながら、器用に抜き身だった剣を腰の鞘に戻している。
「ああ……ちょっと、深く、潜りすぎた……」
「どんな男なんですー? このイドルって人」
何にも頓着していないかのようにセレンがイドルをのぞきこんだ。
シグリィはため息をついた。
「北部の出身……故郷がいやになって、北部を飛び出したんだ。なるべく故郷から離れたいと思い、東部を越え、南部までたどりついて、故郷との環境の違いに苦しみ……そこをダーグ・シャンネスに救われている」
ラディアの体に怖気がよだった。ダーグ。ダーグ・シャンネス。
憎いあの男……!
「北部がいやになって?」
そのときになって、ようやくセレンが不快感をあらわにした。
「北部がいやになって出てきたんですか、この人」
「ああ……まあそんな顔をするなセレン。北部の辛さに耐えられない人間は、よく見てきたろう」
「そうですけど」
苦々しい顔で、美しい顔の娘は気絶しているイドルを一瞥する。ふん、と鼻を鳴らした。何かを嫌っているような表情だ。
「どうしたんだい、嬢ちゃん」
思わずラディアはセレンに声をかけた。
セレンはきょとんとラディアを見て、
「え、何がですか?」
……本気で不思議そうな声だった。
これが演技だったら、たいそうな役者だ。ラディアはがっくりと肩を落とした。張り詰めていた気を全部殺がれたような気分だった。
くすくすと、シグリィが笑った。
「天然ですよ」
またも見透かしたように言う少年に、ラディアは不愉快な顔を見せる。心を読むな。そう言いたかった。
「すみません」
読んだからこそ言えた言葉だろうが――彼は謝ってきた。謝った彼は、額に手を当てていた。倒れるのをこらえているような様相。少年の体にうっすらと透明がかった白い煙が立ち昇っている。
オーラ……というのは、こういうものを言うのだろうか。
シグリィ様、とカミルが少年の両肩をつかんだ。
「シグリィ様? シグリィ様!」
「ん……」
額に手を当てたまま、うつむきがちになったシグリィはゆるゆると頭を振る。
「……流れ込んでくる心に当てられた……。この男……心の中に矛盾がある……」
「矛盾……?」
「大きな……根本的な……」
ガタッと音が鳴った。
はっと三人組の目が一点に集中した。ラディアに。
「あ……ああ、すまない」
ラディアは、ずっと支えにしていた椅子の背もたれからパッと手を放した。いつの間にか力を加えすぎて、椅子がずれたようだ。
「な、なんだい。よく分からないが、水でも必要そうなありさまじゃないか。まったく、これだから子供ってぇのは」
ごまかしながらキッチンに行き、水をコップに入れる。
――そう言えば、夫はよく熱を出したっけ……自分に似て強情で、熱を出しても寝ていろという自分と娘の言葉を聞かなかった。
ふいに懐かしい思い出が脳裏をよぎり、じわっと目尻に涙がたまる。
慌てて袖で拭いて、つぶやいた。
「まだだよ……あの人のところに行くのはもう少し後……」
「はいよ! 世話が焼けるねえ。ほら、こっちへおいで!」
水の入ったコップがテーブルに置かれる。テーブルの傍に腰に手を当てて立ち、ラディアが憤慨しているかのような様子で立っている。
はは、と軽く苦笑いをしていると、「失礼、シグリィ様」とカミルが強引に腕を引っ張った。
シグリィの背中には触れない。今、そこは激しい余熱が残っている。カミルの強すぎる白虎の《印》と合わせたりしたら、軽くこの家が吹っ飛ぶかもしれない。
セレンが灯火の明度を変えないようにしながら、傍らに寄ってくる。カミルとセレンの二人で、自分を挟むようにしてゆっくりテーブルへと向かいながら。
「……なあ、二人とも」
「はい?」
間髪入れずに二人が揃って返事をしてくる。シグリィは少しうつむいたまま、つぶやいた。
「……あの人のところに行くのはもう少し後、っていうのは……普通死期を悟っている人間が言うものじゃあないのかな……」
気づくと、イドルは間道をさまよっていた。
「………?」
なぜ自分はここにいるのだろうと、考えようとするとこめかみにつきんと痛みが走る。
帰らなくては……
帰らなくては……?
――帰る場所など、あったか?
つきん、つきん、つきん
こめかみを突き刺す痛みが消えない。
自分は、帰る場所を捨てて、
――つきん
そして、また帰る場所を得て、
――つきん
そこは……
本当に帰る場所だったか……?
分からない。現に今、なぜ自分は行く先に困っている……?
|