イドル・シュナーディカは、ふわふわとただよう淡い雲の中を歩いていた。
自分がいつの間にここにさまよいこんだのかは分からない。ただこの中にいると安心した。自分の心の中のもやもやは、溶けて周囲の雲に吸い込まれていく。
もうこれで頭痛に悩まされることもない。
この雲の中はなんて心地いいのだろう。
すべてを忘れられるような気がする。すべてを……自分が悩んできたものすべてを……自分自身までも……
ふわふわと。
自分が飛んでいく。
頭の中が真っ白になる。
それでも、自分がおかしいとはつゆにも思わずに。
「しまったな」
そんな声が聞こえたとき、心底耳障りだと思った。
「玄武の力を当てすぎた。力がショートしてトリップしたらしい」
「そんなことがあるんですか?」
「玄武はかなり特殊な力だからな。朱雀同士の力を衝突させると、たまに相殺が起こるだろう? 玄武の場合はこういった副作用が起きる。トリップ。……幻覚」
げんかく? げんかくがなんだって?
そう思ったとき、目の前に閃光が走った。
まぶしくて、イドルは腕で目を覆った。光の残像が瞼の裏に残る。ああ、なんだかいやな光だ。明るすぎていやな光だ。
自分は……イドル・シュナーディカ。突然、名前が降ってきた。
自分は北部の生まれで……
雪に埋もれた故郷に嫌気がさして逃げてきた……
逃げて。……逃げて。
この南部に、やって、き、た、――?
「わたしは……」
周囲の雲が晴れて景色が見えたとき、イドルは真っ先に自分の両手を見下ろした。
手がある。雲に隠れていない手がある。北部生まれゆえに日に当たっても焼けない白い肌がある。そこにある。
「イドル」
雲の中でも聞こえた声がした。あの忌々しい声だ。自分を、追い詰めようとした声。若すぎる声。
たしか、玄武の術者――
イドルはとっさに身構えた。どこにいる? 捜すまでもなく。相手は目の前にいた。女をひとりともなって。
「イドル。意識ははっきりしたか?」
と、黒髪の少年はそう言った。
女の方は杖を持ち、退屈そうにくるくる回している。肩の朱雀の《印》を隠そうともしていない、いまどき珍しい女だった。
ああ、いや――
ここは南部だったか。朱雀の楽園……
秘境の北部とは違う……
女を見つめてしばらく黙っていると、少年の射抜くような視線が襲ってきた。
「その様子なら、意識が戻ったようだな」
「――お前は、何者だ」
やっとの思いで声を出した。
少年の威圧感は、並々ならぬものだった。
少年は、微笑した。
「私は、何者でもないよ」
「嘘を……つくな!」
「本当のことだ」
イドルは怒りで顔を真っ赤にし、少年の顔を見た。黒水晶のように透き通った瞳と目があった瞬間。
体が動かなくなった。
「シグリィ様ぁ」
女が杖をもてあそびながら、唇をとがらせた。
「またカミルに怒られますよぉ?」
「限界までやる。今回はな」
「何でそこまで気合入ってるんですかあ?」
「………」
少年はそこで沈黙した。黒水晶の瞳はイドルを見つめたまま。
何かを――
訴えかけられているような気が、した。
なんだ? イドルの全身から汗が噴き出す。いやな汗だ。体の線を伝っていく汗。
頬をたどった汗は、あごからぽたりと地面に落ちた。
今、彼は自分がどこにいるのか確認することさえできなかった。
「このままシャンネス家に帰ることができるか? いや――行くことができるか?」
少年の声が耳に届く。
帰る、ではなく、行く――
その違いに、イドルは恐怖を感じる。
それはまさに、自分が心の奥底で恐れていたことではないのか。
シャンネス家は、
自分の帰る場所≠ノなっているのか……?
ふいに隙間風が吹いた。
蝋燭の炎が揺れて、暗闇の中に青年の顔が浮かび上がる。
ラディアの方を向いていない。風が吹いてきた方向を見つめているようだった。
淡い茶髪。真顔でいると、精悍さが際立つ。一言で言えば二枚目だが、彼はその言葉を受け入れることはないだろう。ラディアも、そんなことを言うつもりはない。
それ以前に、会話をするつもりもなかった。
しかし、居間のテーブルに黙って座っていたラディアに、彼女を護るように立つ青年の方が声をかけてきた。
「ラディアさん。ラディア……パールさん?」
「……なんだい」
何となく返事の言葉が出た。言葉少なで済ませるつもりで。
しかし、カミルの口から飛び出してきたのは意外な言葉だった。
「あなたは、西部生まれじゃないのですか」
「―――」
ラディアは絶句した。焦って思わず傍らに立つカミルを見上げると、青年は微笑した。
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