リセット - 20
前へ目次次へ

「待て……女!」
 イドルはうなり声のような声を出した。
「女?」
 きょとんとしたセレンは、きょろきょろ辺りを見渡し、それからシグリィを見て、自分を指差して首をかしげた。
 シグリィは肩をすくめた。
「今ここに、お前以外の女性はいない」
「あ、やっぱり? 男装した女性がそこの兵士さんにいるのかと」
「いたらいたで面白いが」
「女! 朱雀の女!」
 イドルは吼えた。セレンはうるさそうに耳をふさいで、
「怒鳴らなくても聞こえるわよー」
 その気楽な反応は、ますますイドルの癇に障ったようだった。
 全身に力をこめてぐぐっと起き上がると、
「もう一度杖を捨てろ!」
「……はあ?」
「私の結界と勝負だ!」
 どうやら彼は、セレンの魔力を防ぐことができなかったことにとてもプライドが傷ついたようだった。
 シグリィが嘆息して、
「やめた方が無難ですよ。杖を持っていないセレンの魔法をひとりで受けようとなどしたら、あなたが死にます」
「うるさい、小僧!」
「シグリィ様は小僧なんかじゃないのー!」
 セレンが的外れなことで怒り出した。
「いや、私は子供だけどな」
 と一応ズレた反応をしておきながら、シグリィはイドルを見る。
「……やめた方がいい。忠告します」
「貴様の言うことなど聞くか……!」
「その……通りだ! イドル……!」
 地面から、這い上がるような声。
 その声の通りに、床から這いつくばった姿勢で顔だけ起こしながら、ダーグが童話の鬼のような顔でシグリィとセレンをにらんでいた。
「こんな……こんな奴らに恥をかかされてばかりでたまるか……っ」
 がりいっと絨毯を引き裂いて、「ふん、貴様らこそ、わたしたちに攻撃をしなければ目的が達成されまい?」
 シグリィはぽんと手を打った。
「なるほど、その手の挑発があった」
「なるほどなるほどーです」
 セレンがうんうんうなずいている。
「よしセレン、ここはちょっと挑発に乗ってみるか」
「はーい」
 なんとも間抜けな会話が交わされた後、シグリィはセレンから杖を受け取った。
「えーと、この場合……」
「床に這いつくばってらっしゃる旦那様にちょっと大きいのを一発でいい」
「はい、はい」
 ダーグは彼らのあまりにも散々な言いように、呆然と口を開けたまま動けなくなった。
 代わりにイドルが、うめき声を上げて。
「旦那様に手出しはさせん……!」
「……なら勝負すればいい。セレンの魔力と」
 冷めた声で返すシグリィ。セレンが口を開いた。凛とした声で――
「重き風に逆らえるものなし!」
 ドウッ!
 発生した風の塊は、何かに衝突した。塊が分散されて散った。
 イドルが自分と自分の主の前に張った、結界だった。
「ありゃ」
 セレンはぽりぽりと頬をかいて、シグリィを見る。
「あの人、なかなかやりますねー」
「そうだな」
 うなずくシグリィは、今の衝突でセレンはまったく問題なしである一方、イドルが激しく肩を上下させていることに気づいていた。
「じゃあ分散なしで! 風に与うは荒ぶる心、もって奔流と成せ!」
 周囲の空気が一変した。ごごごと音を立てて渦を巻く風。直径2メートルはあるだろうその渦は、セレンの手からまっすぐ前へと直進する。ダーグの元へと直行する。
 ダーグが低い悲鳴を上げた。
「く……っ!」
 イドルが結界の二重がけを試みる。一度目の結界は突破されるとふんだのだろう。そして事実、セレンの魔力はひとつ目の結界を軽々と打ち破った。
 威力が落ちない。セレンの魔力に、支障はまったくない。
「ぐ……あああああ!」
 雄叫びを上げて、イドルは最大力の結界を張った。
 風の奔流を受けて、結界がねじまげられる。今にも突き抜けそうな渦を、結界はそれでも受け止め続ける。結界をつきぬけた小さな力が、ぴしっぴしっとイドルの顔や腕を傷つけた。イドルはそれでも、力を出し続けた。
「やれ! やれ! イドルよ!」
 ひたすら命じるダーグは――己自身は、ようやく上体を起こし、今度はじりじりとあとずさっていた。
 それに気づいたのだろう、セレンがむっとしたような顔をした。
「そっちのご主人様、最低……!」
 渦を左手に移し、
「重き風に抗えるものなし!」
 右手でダーグに向かって風の塊を叩きつける。
「うああああ!」
 それさえも受け止めたイドルがうなり声を上げた。
「………」
 血走るイドルの目に、ぎらつく視線に、シグリィは冷たく目を細める。結界は力量差で言えばもう突破されて当然だというのに、イドルの気合がそれを高めている。
 何が彼をそうさせている?
「あなたは、本当にそこにいる男に仕えているのか?」
 シグリィは言った。
 イドルの手元がぴくりと反応し、その隙にセレンの風の渦と風の塊がまた一歩結界を押した。
「あなたは、本心からその男に仕えているのか?」
 重ねて言う。
 ぶるぶるとイドルの手が震えた。
 何を、と反論に出たのはダーグだった。
「当たり前だ! この男はわたしに恩があるのだ! この二十年間、忠誠心は見事なものだったぞ!? 貴様に何が分かる、小僧!」
「シグリィ様を小僧って言わないで!」
 セレンが風の塊をさらに増やした。
 受け止めるイドルの腕に、びきびきと血管が浮き始める。
「恩。恩か。たしかに、忠誠を誓うには充分な理由があったようだ」
 シグリィは冷静に応えた。
「だが私は、イドル、あなたの心に潜ったとき、どうしようもない根本的な矛盾を感じ取った。……それが何か、自分で分かるか?」
「……めろ……」
 うなり声が聞こえた。
 シグリィは瞼を落とす。かのときの感覚を思い出すために。
「あなたの中で渦巻いている心は、いつだって不安だ。この、ダーグという男に対する不安。この男がいつ自分を捨てるのか。感謝する一方で、ずっと不安に思っていたはずだ――」
「やめろ!」
 イドルの心が爆発した。
 結界の力がスパークして、閃光が走る。シグリィは瞬時に結界を張る。自分とセレンと――シャンネス家の者すべてに。
 やがて光が晴れたころ、そこには腰に手を当てたセレンと、膝をついたイドル、まだ後ずさろうとしていたダーグがいた。
 シャンネス家の私兵はいない。
「意識が戻られても面倒臭いので、他の人たちには屋敷のどこかへ飛んでもらいましたよ」
 こともなげにシグリィは言う。セレンが心配そうに少年を見るが、彼女が時間を稼いでいてくれたおかげで、彼も少しは力が戻ってきていた。
 イドルの両腕はひどいありさまだった。火傷を通り越して、真っ黒になっている。
 肩でぜいぜいと息をしながら、イドルはそれでも少年たちをにらみつけた。

前へ目次次へ