「そんな目に遭ってまで」
シグリィは一歩、イドルに近づいた。
「護るべき主人か?」
イドルはぎりぎりと歯ぎしりをする。
「ふ、ふざけるな!」
一歩ずつずりずりと情けなく尻もちをついたまま後ずさるダーグが、しきりにシグリィを指差しながらわめいた。
「わたしがそれに相応しくないはずがない! わたしはシャンネス家の前当主だ! この由緒正しきシャンネス家の――」
「国王の血がなんだと言うんです」
少年の黒水晶の瞳が、ダーグの巨体を射抜く。
「今この場で、情けなく後ずさりしている。そんな男のどこに、国王の血の誇りがあると言うんです」
「………!」
「イドル。イドルさん」
シグリィはまた一歩。
前へ進んだ。
「この男への本心と、向き直った方がいい」
「……っ。……っ」
「怖がるな。そんな男にはそもそも護る価値などない」
「うるさい! 俺を助けてくれた方だ……! 俺を、俺を!」
「玄武の力への興味本位だったとしても?」
イドルの震えが不意にとまった。
「――玄武の力を利用しようとしているだけだとしても?」
「う……うるさい!」
イドルは頭を抱え、激しく振った。
「どんな理由があろうと、助けていただいたんだ! 助けていただいて、助けて、くれて、俺は孤独で、孤独で」
「この家に来てから――」
少年の冷えた氷の欠片は、容赦なくイドルの胸に突き刺さる。
「孤独ではなくなったのか?」
「―――」
「この家にいれば孤独ではなかったのか? ここは本当にあなたの居場所だったのか? それを疑問に思ったことはなかったのか? 本当に、心から?」
「――孤独じゃない!」
駄々をこねるように、イドルは叫んだ。
「あの手鏡がある限り……あれがある限り、俺の居場所はなくならない! なくなるはずがないんだ!」
「貴様、イドル!」
ダーグが体を前に起こそうとして失敗した。情けなく転倒する男を無視して、シグリィはとうとうイドルの目の前に立つ。
イドルを見下ろした。白髪混じりの髪だった。
「手鏡?」
そう訊くだけで充分だった。
イドルは洪水のように言葉を吐き出した。
「ああそうだ! あの、ラディア・パールから奪った手鏡には俺が結界を張った! そうしなければあの手鏡は危険だからな! はっ! あの手鏡を見た瞬間から危険だと感じた! だから封じた! あの男をな!」
「手鏡に誰を封じたって?」
「決まっている! ジアデル――」
「よさぬか、イドル!」
今のイドルは、自分の主人の声さえも聞こえていないようだった。
「――ジアデル・パールを封じ込めた手鏡だ!」
鏡があった。
上半身が映る程度の大きさの、鏡台だ。
その前に座り、ぼんやりとラディアは鏡に映る自分を見ていた。
「……ラディアさん?」
小さなテーブルに薬草茶を載せたまま、剣の手入れをしている青年の声がする。
「ん? なんでもないよ」
ラディアはゆっくりと首を振った。
何となく……奇妙な気になっただけだ。
化粧をしてみようか、などと。
いったい何年ぶりに思ったことだろうか……
セアルの街で最年長である彼女は、自分には似つかわしくないなと思い、くすっと笑った。
鏡の向こうの自分も笑う。なんだかやけにかわいらしく見える。
ばかだね、あたしも。
ぼんやりと鏡を見つめていると、
ふと――鏡の中の自分の背後に、誰かの影が映った。
ラディアは目をぱちくりさせた。続いてごしごしと腕で目をこする。しかし影は消えない。
見覚えのある影だった。
これ以上なく、見覚えのある影だった。
座っている小柄なラディアよりもずっと背の高いその影は、腰を曲げてラディアの耳元に口を寄せると、
――浮気は、許さないぞ。ラディア。
囁いた。
たしかに、そう聞こえた。
「―――!」
ラディアはバンと鏡に両手をつき、貼りついた。
「あ……あんた!」
影は、にこりと笑った。
――もうすぐだから。
そう言った。音のない声で。
――もうすぐだから、待っていろよ。
「あんた……! あんた!」
ラディアは必死で鏡の中に呼びかけた。
間違いない。この影は、この影は、
「あんた……!」
しかし、もう一度にこりと笑った影は、そのまますうっと空気に溶けるように消えていく。
「いやだよ、行かないでおくれよ、あんた……!」
カミルがさすがに剣を置いて立ち上がろうとしたそのときに、ラディアは涙を流しながら叫んでいた。
「――あたしだけを生かして、消えたままなんて許さないよ……!」
「なるほど?」
それを聞いた少年の声は、まったく動じる様子もなかった。
「ジアデル・パール……ラディアさんの旦那さんだな」
「あ、そうなんですか?」
と女が聞いている。
イドルがのどを引きつらせるほどの勢いで叫んだ言葉にも、この目の前の連中はまったく……まったく、驚かない。
イドルは頭の中が真っ白になった。
自分は最大の隠し事を口にしてしまった。
その上、まるで相手はそれをあらかじめ知っていたかのような口ぶりで、平静のまま。
背後では、主人たるダーグ・シャンネスの怒りの気配が濃厚に伝わってくる。
「ラディアさんの心から伝わってきたからな」
イドルの体勢からは見上げる形になる、目の前の少年は、腕を組んで「ふむ」とあごに手をかけた。
「やっぱりか。そうだな、そう思ったんだ」
「シグリィ様〜?」
「うん。そうだな。そうであるのが自然だ――今頃、手鏡にかかっている術は切れている頃だろう」
「!」
イドルは目を見開き、奥歯を噛んだ。しまった――
「そんな馬鹿な!」
代わりに叫んだのはダーグ。少年は彼を一瞥し、
「イドルさんにこれだけ力を消耗させていれば当然でしょう。あなたは愚かな主人だ、ダーグ・シャンネス。自分の大切な部下の力量ぐらい知っておきなさい」
黙れ黙れ黙れとダーグがわめいている。
大切な、部下――?
本当にそうだったろうか。イドルはうつむいた。
そうだ。
この少年の言う通りなのだ。自分は―常に恐れていた。ダーグは自分の玄武の能力に惹かれただけだ。自分の力がもし役に立たなくなったときは、そのときは、あっさりと捨てられるのではないかと。
だから自分は、あの手鏡に固執した。
あの手鏡にジアデル・パールを封じることができるのは、自分だけだから。
それをダーグが望んでいたから、喜んでそうした。そして、そのままの時間が流れることを願った。他のことにあまり能力を使いすぎると封印が解けることも分かっていたから、他に何事もないよう願った。
すべてをぶち壊そうとしているのがラディア・パールだと知って。
彼女もろとも、手鏡に封じてしまおうと、思った。
すべては独断。ダーグに忠誠を誓う一方で、自分の保身のために動こうとしていた。
……少年の言う矛盾とはそういうことか。
それとも、別のことか。
別のこと?
向き直れと?
いったい何に……?
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