「イドルさん」
呼ばれて、はっと顔を上げると、少年が腕組みを解いていた。
「手鏡を、返してほしいのですが」
「―――」
「ふ、ふざけるな! あれはわたしのものだ!」
拳を振り回して騒ぐダーグを眉をひそめて見た少年は、
「うるさいんですよあなたは。そもそもあなたに、イドルさんに命じる権利は元々ない」
「なんだとっ!?」
「家系図を見たことがないんですか?」
家系図がどうしたっ! と吼えたダーグに、嘆息した少年は、女に目をやった。
「セレン、さっきの家系図、持ってきてくれないか」
「はーい」
心得たとばかりに女は書庫の中に入っていく。そして、イドルがからからの喉を何度も嚥下し、なんとかつばを飲み込んだその頃に、ようやく出てきた。腕に家系図を入れる箱を持っている。
少年が箱から、優しい手つきで家系図を出した。
そして、手馴れたようにぱらぱらとめくった。
「ここだ」
イドルの目の前で開いたそのページ。
見慣れない字が躍っていた。……マザーヒルズ国王、ルサワ……
しかしその隣を見た瞬間、イドルは静止した。
「だからなんだと言うのだ!」
ようやく立ち上がり、ふらふらとやってきたダーグに、少年は家系図を、そのページをつきつける。
ダーグは文字を追っていき、やがてそこにたどりついたようだった。
そう。この家の親戚にあたるマザーヒルズ国王ルサワの隣にかすむように書かれた名前。
その女性の血筋こそ、シャンネス家の祖先。
そしてその女性の名は。
ミルドレ・シュナーディカ。
「ルサワ国王と言えば」
少年は思い出すかのように言った。
「私の記憶によれば、大変な女好きで、また好事家だった。世界各地から女性を捕らえてきては妾にして、子供を作っていた……ミルドレという女性は、その中の女性のひとりだ。名前がかすれているところからして、シャンネス家の歴史から消そうとされている。おそらくはルサワ国王に飽きられて北部にまた追い出されたというところでしょう。そして南部に子供だけが残り、国王の血縁として栄えた」
「そんな……馬鹿な」
ダーグは目に見えてうろたえた。
「そ、そもそもおかしいだろう。このミルドレとかいうやつは女だ、女の姓が残るはずはあるまい」
「シュナーディカ姓が残っているのは、北部では女性の姓を残すのが普通だからですよ。どこまでも北部に無知ですね」
少年はわざとダーグを怒らせているように見えた。
「………」
イドルは両手を見下ろす。この体は、このシャンネス家と血を分けたもの?
このダーグ・シャンネスは、遠縁だというのか?
この男と……?
じっとダーグを見た。ダーグは、この事実にひどく狼狽していた。ただ単に血がつながっているということに。ただ単に、イドルが祖先の……それも国王の妾の子孫であるということに。
馬鹿馬鹿しい。主従関係にそんなもの何の関係がある?
おそらく、少年はそれを分かっている。分かっていて、ダーグが焦るように仕向けているのだ。
まるでイドルの方が高い地位にいるかのように見せかけて。
ダーグはプライドが高い。その隙をついて。
「旦那様……」
そんなことは気にしなくていい。イドルはそう言いたかった。
しかし、ダーグはそんなイドルを恐ろしいものでも見るかのような目で見て、
「よるな!」
と大きく手を払った。
なぜ? どうして?
――自分を信頼してくれていれば、こんなことくらいで……
またこみあげてきた孤独感。この屋敷の前で躊躇していたときにも感じた劣等感。自分はなぜ、ここにいる? ここは自分の居場所ではないのか?
「イドルさん」
何もかもの発端である少年が声をかけてくる。
返事をするものかと思った。しかし、声はいやになるほど優しげで。
「お願いします。手鏡を返してください」
なぜ自分に頼む――?
「わ、わたしのものだ! わたしと妻のものだ!」
ダーグもあれほど主張しているというのに。
「あなたに言ったところで渡してくれないでしょう」
少年はうるさそうにダーグを見た後、再びこちらに視線を向けた。
ああ、やめてくれ。
その黒い瞳は苦手なんだ。
何もかも……吐き出してしまいそうだから。
「お願いします」
なおも頼んでくる声は、こちらに向いていて。
重苦しい気持ちで、言った。
「……あれの術が解けたなら、何が起こるか分かっているのか……」
知らないはずがない。これほど何もかも見透かしているような少年が。分かっていないはずがない。
案の定、悲しげに微笑む気配があった。
「ええ、分かっていますよ。……私はいつでも、誰を救うこともできないんです」
「待て、待ってくれ……!」
そう叫ぶ主人を無視して、イドルが立ち上がった。
ダーグはなおもうるさくすがってこようとする。
シグリィはぽんと手を叩いた。
一瞬にして、ダーグが眠りに落ちた。
イドルが何も言わずに背を向けた。
ついていけばいい。もう彼に自分たちに対する敵意はない。
そう思って、歩き出そうとしたそのときだった。
後ろからぎゅっと抱きつかれて、シグリィは危うくじゅうたんに足を取られかけた。
「な、なんだ? セレン」
「シグリィ様……」
女の声は、切なく哀しげだった。
「あんな寂しいこと、言わないでください……」
「………」
シグリィは優しく、セレンの腕を解いた。セレンを振り返り、柔らかく微笑む。
「大丈夫だよ。私は気にしていない。私はそういう運命なんだ」
「そんな」
「そうだろう? 私が……私のようなものが人の運命に干渉してはいけないんだ」
そして再びイドルの背中へ向き直り、歩き出した。
「………」
セレンのどこまでも寂しげな視線が背に触れる。
優しい娘だ――
この場にカミルがいても、きっとセレンと同じことを言うのだろう。
(……お前たちがいるだけで、私は幸せだから)
心の中が幸福で満たされる。今はそんな場合ではないと分かっていても。
今から始まることは。
いや、自分がやると決めた瞬間に始まったことは、すべて。
――悲しみへ繋がることを、知っていながら。
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