ねえカミル、とラディアは呼んだ。
はい、と律儀に返事をする青年は傍らにいる。
泣き濡れた自分の顔を、横から優しく見ている。
カミル。
あんたの仲間は、今度こそ成功に向かっているようだね……
それを聞いて、当の青年は当惑したような顔をした。
泣き濡れた顔で、微笑んだ。
「――あたしの孫夫婦を呼んどくれ。ああ、娘はもう死んじまったからさ」
鏡に映る自分の涙のあとが、なぜか、美しく思えた。
その部屋のノッカーを打とうとした瞬間、ドアは内側から開いた。
あわてふためいて出てきたのは、ネラ・シャンネスだった。
「奥様?」
イドルは訝しく思って呼んだ。ネラはその場で尻もちをつき、部屋の中を指差して、震えてぱくぱくと口を動かしている。
「落ち着いて」
シグリィが女性の前でしゃがみこみ、その目をのぞきこむと、ふっと女はそのまま後ろへ倒れこんだ。どうやら眠ったらしい。
「シグリィ様……力の使いすぎです」
ぽつりとセレンが言った。
「気にするな」
と少年は言った。「せめてもの償いだ」
「償い……?」
「全力を尽くすことがさ」
その言葉の意味を、イドルは知っている。
「………」
何も言わずに部屋の中に入った。勝手知ったる主人の部屋だ。ダーグもネラもいない。今部屋の中にある、いや、いるのは――
テーブルの上。
あの手鏡が、鏡面を上にして置かれていた。
それを見た瞬間、セレンが「わっ」と声を上げた。あまり女らしい声は上げないのだな、と場違いな感想が浮かんだ。
手鏡の上に――ゆらゆらと。
人の形をした半透明な何かが浮かんでいる。
片足の先端だけが、まだ手鏡から抜けきれずに、突っ込まれたままだった。
「ジアデル・パールさん?」
そう問いかけたのは少年だ。
半透明の男は、ゆっくりとうなずいた。
「え、えー!?」
女が口をぱくぱくさせる。イドルは一歩手鏡に近づいて、
「間違いない……。二十年前の、パール氏本人だ。俺が……封じた」
封門が開きかかっているな、とつぶやく。
「そのようですね」
少年も手鏡に近づいてくると、テーブルに置かれた状態のままのそれに指先を触れた。そして目を細める。何もかも見透かす目。
「……ですがどうやら、これに封じられてしまったのは、ジアデル氏だけではないようだ」
「何の話だ?」
当惑して、イドルは尋ねた。
少年はジアデル・パールの影を見上げて、
「申し訳ありませんがジアデルさん。今は手鏡の中に戻っていただけませんか。奥様のところへご案内するには、鏡の状態の方がいいので」
舌先三寸でそうやって再び封じることも可能だ。
だが、少年はそれをしないだろうことを、イドルは心のどこかで分かっていた。
ジアデル・パールも同じだったのだろう――彼の影は大人しく、手鏡の中に消えた。
「ありがとうございます」
少年は手鏡を手に取った。もう力のショートもしないほど、イドルの残留力はその鏡にはないようだった。
「うっひゃ〜」
感動しているのか驚いているのか、セレンが間抜けな声を出す。「シグリィ様、これどうにかなるんですか?」
「……なるようになるさ」
その言葉が。
どんな結果をもたらすか、イドルは知っている……
セアルの夜はもう、眠りに落ちた。
オレンジ色の灯火は消え、街の火はそこかしこにある警邏隊による灯りだけ。
シグリィは手鏡をハンカチに包んで持っていた。
セレンが心配そうにちらちらこちらを見ていたが、あえて無視しておいた。
イドルは、唇を噛んで後ろをついてくる。
嫌がる彼を、ラディア・パールへの家へついてこいと強引にシャンネス家から引っ張り出したのはシグリィだった。
もう、あの家にはいられないだろう――と。
それを言われて、もはやイドルには言葉がないようだった。
当然だ。四十にもなってすべての道を失ったのだから。
しかしシグリィは彼に同情するつもりなどなかった。むしろ救いたいからこそ、屋敷からつれだし、今から行く場所へと連れて行くのだ。
救うのは自分ではない。
けれど架け橋ぐらいにはなるだろうと。
その家は奇妙なことになっていた。オレンジ色の灯火が、家のあらゆるところから漏れ出ている。
壁が破壊されているのだ。
シグリィはため息をついた。
「朱雀が相手だったか……まあ南部なら当たり前だな」
「カミルの相手ですかー?」
セレンは、あーあーと口をひん曲げた。
「ラディアさんの家、ひどいことになってるー。カミルったら大失敗ですよぉ」
「まあ、仕方ない。最初に失敗させた私が悪い」
「あ、いえそんなことは言ってなくて」
セレンがあわあわするのをとりあえず置いておき、シグリィは手鏡を見た。
淡く発光している。―反応している。
「ジアデルさん。あなたの家ですよ。破壊されてしまいましたが……どうやら、家畜は無事のようだ」
え、本当ですか!? と自分のことのようにセレンが喜んだ。
シグリィは再度歩き出す。イドルがついてくるのをたしかめながら。
やがて、気配を感じ取ったのだろう、
「シグリィ様! セレン」
破壊された壁から、カミルが顔を出した。
「カミル。無事……じゃ、なさそうだな」
「いえ、無事です。大したことはありません」
「お前、着替えまでしていて大したことはありませんはないだろう」
「いや、これはラディアさんが大げさに……」
「誰が大げさだい」
後ろからぽかっとカミルの腕を叩いた女性がいた。ラディアだった。
「遅かったねえ、坊やたち」
数刻ぶりに見る彼女は、どこか表情が優しげだった。
「早くお入り。……ああ、そっちの兄さんも来たのか」
ラディアの目がイドルを捉える。シグリィはすかさず、
「彼は必ず必要となります」
と言い添えた。
「そうかい」
そう言ったラディアの声に、敵意は含まれていなかった。
シグリィたちがラディアの家へ足を踏み入れると、そこには見覚えのない女性と男がいた。
セレンがひっと飛び上がり、
「きゃあああ! すみませーん!」
誰も何も言っていないのに頭を抱えた。
カミルがため息をついて、
「もう怒ってはいらっしゃいませんよ。いいから顔を上げなさい、セレン」
「ん? どちら様だ?」
「……セレンが突っ込んだ果物屋の女将とそのご亭主です」
「ああ、つまりラディアさんの」
「そうさ、あたしの孫夫婦だよ」
ラディアがふふっと胸を張る。
「自慢の孫夫婦だよ。あたしにそっくりだろう?」
「……帰ってくることの前兆が、伝わったのでしょうか?」
「何のことだい?」
ラディアはこれまでとは別人のようににこにこ笑っている。
シグリィは一時、口を閉じた。
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