なぜラディアがここに孫夫婦を呼んだりしたのか――分かっていた。
やれることはひとつしかない。たとえどんな結果を生むか分かっていても。
「……手鏡を取り返してきました」
ラディアの前に進み出て、ハンカチを開いた。
それは、美しい手鏡だった。金と銀の細工だ――王侯貴族が使っていそうな、素晴らしい細工物。
「シレジア産でしょうね。本当に見事な品です」
「本当に取り戻してくれたんだね」
ラディアは嬉しそうに、目を細めた。「ありがとう。ありがとうよ」
手を伸ばそうとする彼女を、シグリィはやんわりと制する。
「まだ、封門が開き切っていません」
「え?」
「イドルさんが封じたもの。まだ、解除されていません」
「……分かっているよ」
ラディアは体の前で両手を重ね、おっとりと孫夫婦を見た。優しい顔だった。
「お、おばあちゃん? いったい何なの、何でこんなことになっているの?」
セレンを怒った張本人である果物屋の女将が、おろおろと祖母を見返している。その肩をなだめるように夫が抱いていた。
ラディアは、にっこりと笑った。
「ごめんね、ミルドレ」
「―――!」
これにはシグリィも目を見張った。なんたる偶然だろう――!
横を向けばイドルも、大きく目を見張って何も言えなくなっている。
そんなことも構わず、ラディアは孫娘に語り続ける。
「あたしもねえ、そろそろお迎えが来たみたいだわ」
「は!? なに馬鹿言ってるのよおばあちゃん、そんなに元気なのに!」
「それとも僕たちの知らない内にご病気に……?」
ミルドレと名づけられた孫娘の夫が、心配そうに口を出す。ラディアはゆるりと首を振りかけて、やめた。
「……いや。病気だったんだ。とっくの昔に、病気だったのさ……」
「おばあちゃん?」
「でなきゃ、八十歳も生きているわけないだろう?」
「なに言ってるのってば! 健康だから八十歳までいてくれてるんじゃないの! まだまだ元気でしょ! あの薬草茶、まだ飲んでるんでしょ! あれがある限り死なないって言ったじゃない!」
「あれを飲むことは、もう二度とないよ」
「おばあちゃん!」
「どうしたんですか、お義祖母さん」
孫娘は必死の形相で、その夫はひたすら心配そうに、ラディアの顔を見つめる。
ああ、いい孫夫婦に恵まれたのだな。
きっと娘夫婦もこうだったに違いない。
何の根拠もなく、シグリィはそう思った。
ラディアはシグリィに向き直って、
「その、ふうもん? とやらを開いておくれよ。できるんだろう?」
「……本当に、いいんですか?」
「あたしの旦那はどこだい?」
穏やかに彼女は呼んだ。あんた、と。
そこからはシグリィの手にもイドルの手にも負えない世界だった。手鏡の鏡面からもくもくと煙が湧き出したかと思うと、次には半透明の人影が現れる。
ミルドレが目を見張った。
「お……おじいちゃん……?」
ジアデル・パールはにこりと笑った。
二十年前。
当時の姿そのままで。
イドルの手によって手鏡に封じられた彼は、二十年間、鏡の中にいた。なぜなら、
その手鏡は常に何かを封じていることで、美しさを増すという呪のかかったものだったから――
「ふうもんとやらはすぐに解けるのかい?」
とラディアはシグリィに訊いた。
シグリィはうなずいた。
「そうか。なら少し話をしてからにしようかねえ」
よいしょ、とラディアは椅子を引く。
「ああ、カミル。あんたも座ったらどうだい」
「私は結構ですよラディアさん。充分休みました――むしろシグリィ様を休ませていただけませんか」
「ん? 坊やは疲れているのかい?」
「私も構いませんよ。私の連れは二人して心配性なんです」
シグリィはカミルに向かって、黙っているように目配せした。カミルはそのまま沈黙した。
「さてと。ミルドレ。あんたが十歳のときの話だね。記憶に残っているかな。二十年前の話だけれど」
ミルドレはぶるぶると両拳を震わせていた。
「お……覚えている、わ。その、手鏡。ぬす、まれ、た」
彼女は、徐々に襲ってくる理由の分からない恐怖に怯えているようだった。
「わたし、その手鏡好きだった。でも触るとおじいちゃんに強く怒られた。そんな、鏡、だった……」
「そうだね。触るのは危険だったから、この鏡は……」
ミルドレ、と彼女はその名を噛みしめるように呼んだ。
「ミルドレという名が、どこから来たか知っているかい」
「し、知らないわ。ただ、わたしの名はおじいちゃんがつけたとしか」
「そうだよ。おじいちゃんはね」
――北部の生まれなんだよ。
「ラディアさ……」
声を上げたのはカミルだった。ラディアは笑った。
「さすがのあんたも、ここまでは見抜けなかったろう? そうさ、あたしの旦那は北部生まれで南部育ちだ。ご両親に連れられて南部に来たらしい。母親の方は南部の人間だとか――北部には、女の方の姓を名乗る習慣があるそうじゃないか?」
「――ええ、ええ、そうです」
ワンテンポ遅れて、シグリィは応えた。ラディアはシグリィやイドルの反応に気づいていないかのように、楽しげに、
「何でもねえ、旦那の直系の先祖に南部の国王様に仕えた美しい女性がいたらしい。それがミルドレっていう名前なんだとさ。美しい女の子になるようにってね、旦那がつけたんだよ」
「馬鹿な……」
がくりとその場に膝をついたのは、イドルだった。
当然だ。こんなこと――誰が信じる?
「どうしたんだい」
ラディアが不思議そうにする。
「続けてください」
シグリィは目を伏せて、先を促した。
絡み合った糸。
もうすぐ、切れるときが来る。
「この手鏡はね……何かを封じていないと、この美しさを保てないんだとさ。馬鹿馬鹿しいだろう。元は何を封じていたと思う?」
このことは、イドルとラディアの心の中に残っていた記憶をつなぎ合わせれば分かることだった。
「二十年前、あたしの旦那が封じられる前まではね」
――ジアデル・パールが封じられるまでは。
「旦那の、お母さんがね」
――四十歳になる女性が。
「そして、旦那が封じられるのと入れ替わりに」
――入れ替わりに、煙となって。
「お義母さんは死んじまった」
――この世の人ではなくなった。
うう、とイドルが頭を抱えてうめいた。
それはそうだ。ラディアの話が本当なら……イドルは自分の親戚をその手で死なせたことになる。
イドルは心のない男ではない。
血をまったく捨て去れない男ではなかった。だからこそ――
彼の心には、根本的な矛盾がある。
そう、迷いが。
「この鏡に旦那を封じたのは……まあ、この際水に流すことにしようか。そこで、泣きそうな顔をしていることだし、ねえ」
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