リセット - 25
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 うう、うう、とイドルはただひたすらうめいた。
 ひょっとしたら泣いていたかもしれない。
 ミルドレたちは不審そうにイドルを見ている。ラディアの話だけでは、とっさに彼が何者なのかを判断しかねたのだろう。
 判断しなくていい。その必要は、もうない。
 何もかも、リセットして。
「旦那が封じられたときに、不思議なことにあたしも心の歳が止まっちまった。分かるかい? 心の年齢だよ」
「おばあちゃん、よく分からないよ」
「そうだろうねえ……二十年前、六十歳だったあたしの心は、この手鏡が盗まれたその瞬間から止まっちまった。永遠に六十歳のままでね」
 封じられちまったんだよ――と老婆は言った。
 あたしの年齢ごと、封じられちまったんだよ、と。
「おかげであたしは、体は老いるってのに死ねやしない。心が六十歳のままだからね。八十の割には元気だと、あんたらも思ったろう?」
 ラディアの目は旅人たちを見る。シグリィたちは何も言わなかった。
 その反応に文句があるわけでもなく、ラディアは上空を見た。
「……でも、ようやく……」
 視線は徐々にずれて、やがて彼女の夫の影を映す。
「ようやく……逝ける……」
「おばあちゃん!」
 ミルドレが叫んだ。
「いやだよ、おばあちゃん! 何で逝っちゃうの! まだ、わたしたちがいるじゃないか!」
「ミルドレ……」
 ラディアは孫娘に目をやり、優しく微笑んだ。
「今までありがとう、あたしのかわいいミルドレ」
「おばあちゃん……!」
「じいさんも、最期にあんたの顔見られて嬉しいさ。残念ながらユーハルの顔は……見られなかったけどね」
「お、お母さんは、最期まで手鏡を盗んだ男を憎んで」
 ミルドレの狼狽した声に、イドルがびくっと体を震わせた。
 自分の犯した罪。彼は今どう思うのだろう。
「憎まないでやっておくれ」
 しかしラディアは、そう言った。
 ミルドレは当惑したような顔をした。
「なに言ってるの。今まで一番憎んでいたの、おばあちゃんじゃない」
「死を間近にするとね、憎しみを心に抱いて逝くことが哀しくなるんだよ。すべてを水に流したくなる。何より」
 と、手鏡の上の夫を見て、
「旦那が……こんな穏やかな顔をしているからね」
 ジアデルはそれに合わせて、にこやかに笑った。
 そこには何もかもを赦した、聖人のような気配さえあった。
「旦那がこんな顔をしているのに、あたしがしかめ面じゃねえ」
 ラディアは幸せそうに笑った。
 ミルドレの言葉が止まる。
 代わりに流れ始めたのは大粒の涙――
 しゃがみこんでしまったミルドレの肩を、彼女の夫が抱く。
「優しいミルドレ。ありがとう」
 ラディアは深く頭を下げた。
 ミルドレの口は何かを言おうとして、何も言葉にならず、両手で覆われた。
 そして、老婆はシグリィに向き直る。
「ふうもんを開いておくれ」
「………」
 イドルさん、とシグリィは呼んだ。
 イドルは全身を震わせて、
「こ、これ以上残酷なことを俺にやれと……言うのか……」
 ジアデルも彼の親戚になるのだ。それも直系の。
「なに言ってんのよ今さら」
 セレンが杖の先端でびしびしとイドルの横腹をつつく。
 しかしイドルはもう限界のようだった。
「頼む! 許してくれ!」
 懇願する男を前に、シグリィは自分の最後の仕事を見出す。
「分かりました」
 元々。
 自分は人を救うことはできない。
 ただ、人々の願いを叶えることはできても。
 叶えることが、必ずしも救いとなるとは限らないから。
 ――ラディア、ジアデル、そしてイドル。
 すべての願いを叶えようと決めた。
 イドルの玄武より、自分の玄武の方が力は上だ。イドルの術を破ることはたやすい。
 だから……
 シグリィは、ラディアの手を取った。
「……目を閉じて」
 ラディアは言われるまま。その顔の穏やかさは女神のようだった。
 シグリィは次に反対の手で、手鏡をつかむ。
「ジアデルさん、ご覚悟は?」
 壮年の男は、ただうなずいた。
「いやあ、おばあちゃん、おじいちゃん……」
 かすれた声で、ミルドレがどん底からの声を出した。
「ミルドレ、あたしは何も恨んじゃいない」
 ラディアはどこまでも、どこまでも穏やかな声で。
「だからあんたも、恨んじゃいけないよ」
 それを言うためにきっと、ラディアは。
 孫娘をこの場に呼んだのだ。
 シグリィの背が熱くなる。玄武の《印》が力を解放して。
「……さようなら、優しいラディアさん、ジアデルさん……」
 少年はつぶやいた。
 ミルドレの悲鳴が響いた。
 閃光の中で――

 そして。

 光が晴れたとき、すべては終わっていた。

 黒く変色した手鏡を手に、シグリィはがくっとその場に膝をついた。
「シグリィ様!」
 カミルがとっさに近づいて主の体を支える。
 少年は全身に汗をかき、荒い息をついていた。
「……今夜は本当に、力の使いすぎだな」
 カミルに心配そうに顔をのぞきこまれ、シグリィは苦笑した。
 それから、真っ黒になった手鏡を見る。今は何も封じられていないその手鏡に、美しさなどかけらもない。
「………」
 イドルが後ろの方で、嗚咽をもらしているのが、聞こえた。
 セレンが遅れて駆け寄ってくる。
「シグリィ様、早く宿に戻りましょうよ。ゆっくり休まなきゃ。玄武の力なんて、一番消費がひどいって言いますし――」
 そのとき、目の前に人影が立った。
 見上げると、涙を流し続けたままのミルドレが立っていた。
 その表情。
 怒り。
「……出て行ってよ」
 低い声で、彼女は言った。
「ミルドレ」
 慌てて夫が妻を抑えようとしたが、遅かった。ミルドレは激しくまくしたてた。
「出て行って! この街から出て行って! あんたたちはわたしのおじいちゃんとおばあちゃんを殺したのよ! どの面下げてこの街に居続けようって言うの! 出て行きなさいよ!」
 シグリィは重い足を持ち上げ、カミルを押して立ち上がった。
 そして、ミルドレに向かって深く頭を下げた。
 顔を上げても何も言わなかった少年に、カミルとセレンが怪訝な顔をした。
「シグリィ様?」
「行くぞ」
 シグリィはそのまま、身を翻した。
 行く先にイドルが見えた。床にうずくまったままの。
「カミル、悪いがイドル氏を引っ張ってきてくれ」
「はあ……シグリィ様、どこへ?」
「街を出る」
「はあ!?」
 セレンがすっとんきょうな声を上げた。
 ミルドレがひっくり返った高い声で笑った。
「そうよ、あんたらなんか出ていけばいい、出て行け、出て行け……!」
 祖母を喪った悲しみを憎しみに変えてしまった女性の悲しい声が、風の吹きぬける家を埋め尽くす。
 それを背後に聞きながら、シグリィは足早に家を出た。
 ミルドレの声は、やがて泣き声に変わっていく――

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