うう、うう、とイドルはただひたすらうめいた。
ひょっとしたら泣いていたかもしれない。
ミルドレたちは不審そうにイドルを見ている。ラディアの話だけでは、とっさに彼が何者なのかを判断しかねたのだろう。
判断しなくていい。その必要は、もうない。
何もかも、リセットして。
「旦那が封じられたときに、不思議なことにあたしも心の歳が止まっちまった。分かるかい? 心の年齢だよ」
「おばあちゃん、よく分からないよ」
「そうだろうねえ……二十年前、六十歳だったあたしの心は、この手鏡が盗まれたその瞬間から止まっちまった。永遠に六十歳のままでね」
封じられちまったんだよ――と老婆は言った。
あたしの年齢ごと、封じられちまったんだよ、と。
「おかげであたしは、体は老いるってのに死ねやしない。心が六十歳のままだからね。八十の割には元気だと、あんたらも思ったろう?」
ラディアの目は旅人たちを見る。シグリィたちは何も言わなかった。
その反応に文句があるわけでもなく、ラディアは上空を見た。
「……でも、ようやく……」
視線は徐々にずれて、やがて彼女の夫の影を映す。
「ようやく……逝ける……」
「おばあちゃん!」
ミルドレが叫んだ。
「いやだよ、おばあちゃん! 何で逝っちゃうの! まだ、わたしたちがいるじゃないか!」
「ミルドレ……」
ラディアは孫娘に目をやり、優しく微笑んだ。
「今までありがとう、あたしのかわいいミルドレ」
「おばあちゃん……!」
「じいさんも、最期にあんたの顔見られて嬉しいさ。残念ながらユーハルの顔は……見られなかったけどね」
「お、お母さんは、最期まで手鏡を盗んだ男を憎んで」
ミルドレの狼狽した声に、イドルがびくっと体を震わせた。
自分の犯した罪。彼は今どう思うのだろう。
「憎まないでやっておくれ」
しかしラディアは、そう言った。
ミルドレは当惑したような顔をした。
「なに言ってるの。今まで一番憎んでいたの、おばあちゃんじゃない」
「死を間近にするとね、憎しみを心に抱いて逝くことが哀しくなるんだよ。すべてを水に流したくなる。何より」
と、手鏡の上の夫を見て、
「旦那が……こんな穏やかな顔をしているからね」
ジアデルはそれに合わせて、にこやかに笑った。
そこには何もかもを赦した、聖人のような気配さえあった。
「旦那がこんな顔をしているのに、あたしがしかめ面じゃねえ」
ラディアは幸せそうに笑った。
ミルドレの言葉が止まる。
代わりに流れ始めたのは大粒の涙――
しゃがみこんでしまったミルドレの肩を、彼女の夫が抱く。
「優しいミルドレ。ありがとう」
ラディアは深く頭を下げた。
ミルドレの口は何かを言おうとして、何も言葉にならず、両手で覆われた。
そして、老婆はシグリィに向き直る。
「ふうもんを開いておくれ」
「………」
イドルさん、とシグリィは呼んだ。
イドルは全身を震わせて、
「こ、これ以上残酷なことを俺にやれと……言うのか……」
ジアデルも彼の親戚になるのだ。それも直系の。
「なに言ってんのよ今さら」
セレンが杖の先端でびしびしとイドルの横腹をつつく。
しかしイドルはもう限界のようだった。
「頼む! 許してくれ!」
懇願する男を前に、シグリィは自分の最後の仕事を見出す。
「分かりました」
元々。
自分は人を救うことはできない。
ただ、人々の願いを叶えることはできても。
叶えることが、必ずしも救いとなるとは限らないから。
――ラディア、ジアデル、そしてイドル。
すべての願いを叶えようと決めた。
イドルの玄武より、自分の玄武の方が力は上だ。イドルの術を破ることはたやすい。
だから……
シグリィは、ラディアの手を取った。
「……目を閉じて」
ラディアは言われるまま。その顔の穏やかさは女神のようだった。
シグリィは次に反対の手で、手鏡をつかむ。
「ジアデルさん、ご覚悟は?」
壮年の男は、ただうなずいた。
「いやあ、おばあちゃん、おじいちゃん……」
かすれた声で、ミルドレがどん底からの声を出した。
「ミルドレ、あたしは何も恨んじゃいない」
ラディアはどこまでも、どこまでも穏やかな声で。
「だからあんたも、恨んじゃいけないよ」
それを言うためにきっと、ラディアは。
孫娘をこの場に呼んだのだ。
シグリィの背が熱くなる。玄武の《印》が力を解放して。
「……さようなら、優しいラディアさん、ジアデルさん……」
少年はつぶやいた。
ミルドレの悲鳴が響いた。
閃光の中で――
そして。
光が晴れたとき、すべては終わっていた。
黒く変色した手鏡を手に、シグリィはがくっとその場に膝をついた。
「シグリィ様!」
カミルがとっさに近づいて主の体を支える。
少年は全身に汗をかき、荒い息をついていた。
「……今夜は本当に、力の使いすぎだな」
カミルに心配そうに顔をのぞきこまれ、シグリィは苦笑した。
それから、真っ黒になった手鏡を見る。今は何も封じられていないその手鏡に、美しさなどかけらもない。
「………」
イドルが後ろの方で、嗚咽をもらしているのが、聞こえた。
セレンが遅れて駆け寄ってくる。
「シグリィ様、早く宿に戻りましょうよ。ゆっくり休まなきゃ。玄武の力なんて、一番消費がひどいって言いますし――」
そのとき、目の前に人影が立った。
見上げると、涙を流し続けたままのミルドレが立っていた。
その表情。
怒り。
「……出て行ってよ」
低い声で、彼女は言った。
「ミルドレ」
慌てて夫が妻を抑えようとしたが、遅かった。ミルドレは激しくまくしたてた。
「出て行って! この街から出て行って! あんたたちはわたしのおじいちゃんとおばあちゃんを殺したのよ! どの面下げてこの街に居続けようって言うの! 出て行きなさいよ!」
シグリィは重い足を持ち上げ、カミルを押して立ち上がった。
そして、ミルドレに向かって深く頭を下げた。
顔を上げても何も言わなかった少年に、カミルとセレンが怪訝な顔をした。
「シグリィ様?」
「行くぞ」
シグリィはそのまま、身を翻した。
行く先にイドルが見えた。床にうずくまったままの。
「カミル、悪いがイドル氏を引っ張ってきてくれ」
「はあ……シグリィ様、どこへ?」
「街を出る」
「はあ!?」
セレンがすっとんきょうな声を上げた。
ミルドレがひっくり返った高い声で笑った。
「そうよ、あんたらなんか出ていけばいい、出て行け、出て行け……!」
祖母を喪った悲しみを憎しみに変えてしまった女性の悲しい声が、風の吹きぬける家を埋め尽くす。
それを背後に聞きながら、シグリィは足早に家を出た。
ミルドレの声は、やがて泣き声に変わっていく――
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