「正しく言うなら」
シグリィは街道を歩きながら独り言のようにつぶやいていた。
「ラディアさんが旦那さんに心を強く残してしまった。大切な旦那さんのためこの家を護らなければならない、旦那さんがこんなことになっている内は死ねない、そんな想いが積もり積もって……心だけが残って、肉体だけが老いていく。そんな現象が、稀に……ある」
年齢を封じられたわけではない。
そんな理由でラディアはこの世に留まっていたのだけれど。
――そんなことを彼女本人に説明しても、意味がないと思った。
街道をまっすぐ行けば、街を出る門へ着く。
不意に立ち止まった彼は、街を振り仰いだ。
「ほんの少しの滞在だったが……とてもそうとは思えないな」
「ほんとに街を出る気なんですか?」
セレンが不安気に眉を寄せる。「これから朝ですけど、体力的なことを考えたらどう考えても街を出たところで野宿ですよ。シグリィ様、野宿に耐えられます?」
「……いない方がいい。私たちは目立つ」
「まあ、そうですけど」
「この方はどうしますか」
カミルが肩を貸しているイドルを示す。
シグリィはうつむいたままのイドルに近づいた。
そして、真っ黒の手鏡を差し出した。鏡面を裏にして。
「この手鏡……本来の力を知っていますか」
「………?」
イドルはほんの少し顔を上げた。不安そうな顔だった。
「この手鏡は、本来心明鏡≠ニ呼ばれていたんですよ」
「……なぜ、そんなことを知っている?」
「文献に載っているのを見たことがあります」
シグリィは手鏡を見つめるイドルを見て、
「この鏡の本来の役目は、心を映すこと」
「心を……?」
「鏡は昔から、人の心を映すと言いますが、これはまさしく本当に人の心を映す≠ですよ。覗き込んだその人の……本心を」
だから。
その力を恐れたかつての持ち主が、この鏡に何かを封じることによってその力を失うように細工したのだと言う。
人の本心を映すということ。
それは大きな代償を生み出すほど、重要なことだった。
そして、ときには必要なこと。
「今のあなたに」
少年の声に合わせて、カミルがイドルの体を放す。
「一番必要なもののはずです」
「俺に……」
「鏡を覗くかやめるかは、あなた次第ですが」
そしてシグリィは、手鏡をイドルの手に握らせた。
イドルの手の震えが伝わってくる。それを最後に。
「行くぞ、カミル。セレン」
少年は二人の連れを促し、街の門へと足を向ける。
もう、何も言うことはなかった。
ひとり残される男がどうするのか、それを知る必要はない……
三人の旅人の姿が消える。
寝静まったセアルの街の街道で。
イドルはひとり、たたずんでいた。
どうする?
もう、自分の居場所はない。
どうする?
もう何もかもおしまいだ。
ただひとつだけ残った、不思議な因縁の鏡。
もうどうでもいい。何もかも、どうなってもいい。
そう思ったから、裏返しになっていたそれをひっくり返した。
きらりと一瞬、鏡面が光った。
男は――
その銀の輝きの奥に、白銀を見た。
涙が、あふれてとまらなかった。それは、
紛れもない故郷の色。
雪に埋もれていた故郷。あの白さ。あの穢れなさ。
ああ、なぜ今になって思い出したのだろう。
なぜ今になって気づいたのだろう……
そこは帰る場所?
否、そんなことは関係ない。
ただ、自分の心はそこに在るのだ。そのことを知って、彼は。
「――……」
一言、つぶやいてゆっくり歩き出した。
やがて彼も、この街を出るだろう。つぶやいた言葉は風に流されて空気に舞い、誰の耳に止まることもない――
(心明鏡奇談/終わり)
|