イドルの背の熱が引く。
「……なぜ逃した」
今や彼のたった一人の主となった、ダーグの低い声がする。
「もしや仲間だと――手を抜いたわけではあるまいな」
「とんでもございません」
イドルは首を振った。
「わたくしは全力を尽くそうと致しました。ですがあちらが気づく方が早かったのです。……わたくしの力が及びませんでした」
「お前以上の力を持っていた、と?」
「残念ですが、そう判断するしか……」
「侵入者にか」
「……申し訳ございません」
ふん、とダーグは不愉快そうにワインを仰いだ。
「玄武の《印》にも格上格下があるわけだな」
「………」
イドルとしては、今回の侵入者とは玄武の《印》の力量差というよりも、経験の差で負けたような気がしていた。
しかし、それも妙だ。自分はこの二十年間、ダーグの下で散々玄武の力を使わされた。その自分が、経験の差で負けるとは……
「侵入者がどんなやつらだったのかは分からぬのか」
「は……。気配から、玄武、白虎、朱雀が感じ取れましたが」
「それ以上のことは」
「申し訳も……」
「まあいい。……実に奇妙な団体だな。北部に西部に南部か?」
「そうとは限りませぬ」
「それぐらいわたしにも分かるわ」
「失礼いたしました」
「だが、もしそうだとしたら面白いじゃないか? ああ、実に面白い。何のために集まった集団なのだ、それは? そして何のためにわたしの屋敷に侵入する?」
イドルが言葉を失ったそのときだった。
「ねえ……」
寝室のドアが開いた。中から、はだけた肌着を着た女が現れた。もう五十近くなったが、この女性は昔から身だしなみを気にしない。
女の名は、ネラと言った。
「ねえ、聞いてるダーグ」
「なんだ。わたしは今楽しいことを見つけて機嫌がいいから、邪魔をしないでほしいんだがな」
「あら、楽しいことってなあに?」
ネラが目を輝かせて、寝室のドアを開けたまま夫ダーグの元へ近寄っていく。
「あとで話してやるわ。それよりお前は何だ」
ダーグは妻の顔を見た。
ネラは巻き髪の先をいじりながら、
「さっきから鏡がおかしいのよ」
と言った。
とたんに、ダーグの顔つきが変わった。険しく引き結ばれ、さっと立ち上がる。
「鏡はどこだ」
「いつもの台の上よ? ダーグ、そんな顔しなくても……」
「時と場合だ!」
ダーグはずかずかと開きっぱなしだった寝室に入っていく。ネラが慌てて追いかける。イドルは寝室の入り口で、二人の姿を見守った。
ダーグが、ひとつの手鏡を持ち上げた。鏡面を見つめて、呆然とした顔になる。
「なんということだ……」
「旦那様?」
イドルは訝しく思って思わず声を上げた。
ダーグはきつく唇を噛んだ後、
「イドル、先ほどの侵入者はラディアではないのか。朱雀がいたのだろう」
「は……いえ、ラディア婦人の気配とはかなり違いが……」
「こっちへ来い」
許しが出て、イドルはすっと前に出る。
そして主とその妻の傍へ行くと、ダーグがぐいっと顔面に押し付けるかのような勢いでイドルの目の前にその手鏡の鏡面を見せた。
イドルは思わず顔を引いた。
そして、見た。
いつもネラの手で綺麗に磨かれている手鏡。ネラのお気に入りの手鏡。その表面が曇り、その奥で誰かがうごめいているような姿が見える。まるで鏡から出ようとしているかのような。
「これは……」
思わずつぶやくと、ダーグは手鏡を自分の顔の前に戻し、凝視した。
「間違いない。あの頃と同じだ。二十年前と」
「わ、わたくしの力が切れたのでしょう。先ほどの出来事で。術をかけ直しましょう」
「………」
それほどだったのか、とダーグは言った。
それほどの相手だったのかと。
イドルはつばを飲み込んだ。
「は……力の衝突は、かなりのものだったと」
「……ラディアだ」
ダーグはつぶやいた。
「ラディアがやったに違いない」
「は? いえ、わたくしの力とぶつかったのは間違いなく玄武――」
「その玄武をラディアが呼んだのだ!」
ダークグレーの髪をいらいらと乱しながら、イドルの主人は歯噛みする。
「そしてわたしの屋敷に侵入させたに違いない。くそ、イドル! 今すぐラディアをこの屋敷につれてこい!」
「今すぐ……ですか?」
「忌々しい女だ! すぐにでも処罰してやりたいわ!」
ダーグは恐ろしい形相で自分のしもべをにらみやった。
「言うことが聞けんのか?」
「……御意」
イドルは胸の前で腕を折り、腰を曲げた。
「しまったな」
シグリィは舌打ちしていた。
「こんな事態は予測していなかった。まさか玄武の使い手がいるとは思わなかった」
「めーずらしーですねー。玄武って北部から滅多に出ないのに」
「最初に属性探知をするべきだった。私のミスだ」
「シグリィ様、あまりご自分をお責めになりませんように」
カミルの心配そうな声に、シグリィは苦笑して、
「あいにく自分を責めるほど私は自分に厳しくない。ただ事実を述べているだけだ――これからやるべきことは」
目を細めて灯火の消えない街並みを眺める。思考するときの癖だ。
「玄武の人間がいると分かった以上、うかつに屋敷に近づけない。力の衝突の具合では私の方が上だとは思うんだが……まあ純粋に北部生まれの玄武が、この南部で全力を発揮できるわけがないからな。しかし相手に私の存在が確実にばれた。おそらく傍に白虎と朱雀がいることも。そうすると……」
「シグリィ様の方が力が上ならー」
セレンが気軽に言ってきた。
「強行突破でいいんじゃないですかー?」
「……まあ、それでもいいんだが」
首をかしげてそう応えた瞬間――
――助けてくれ――
声が、聞こえた。
シグリィははっと視線を遠くへ飛ばした。
その先には、ラディアの家があるはずだった。彼の聴覚が捉える。ラディアの家畜たちが激しく動揺している。
瞬間移動すれば楽な仕事だったのだが、あいにくと連続して力を使いすぎた。シグリィは仕方なく、
「二人とも、走るぞ!」
と、先頭を切って走りだした。
向かうのはラディアの家。
しかし、と彼は思う。
今の助けを呼ぶ声はたしかに――
男の、声だった。
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