「こんな夜に何の用だい」
ラディアは燭台を手に目の前の男を見つめる。
オレンジ色の炎がゆらゆらと揺れて、男の顔を浮かびあがらせる。
激しい嫌悪感がこみあげていた。間違いない。この男は二十年前に……
「我が主人の命により」
ああ、この声もあのときと同じだ。
「あなたを迎えに上がりました」
憎い憎い、憎いほど冷静な声。
二十年経っても、その声には変わらない響きがある。
「あんた、あのときの迎えの男だね」
ラディアは確信を持って言った。
「あのとき、あたしの手から手鏡を奪った男だね」
男は応えない。
一瞬、動じたような気もしたけれど。それに合わせて、燭台が揺れたような気もしたけれど。
男が一歩迫ってくる。
ラディアは一歩退いた。
そもそもこの男はどうやって家の中に入ってきたのか。二十年前も謎だったが、今回も謎だ。
また一歩。男が前に出て、ラディアは後ろに下がる。
これを繰り返せば、ラディアが壁にぶつかってしまう。
唇を噛んだ。せっかく、都合よく現れた旅人に手鏡を取り返してくれと頼んだところだったのに――
いや、これはチャンスなのだろうか? 一番手ごわそうな男がここにいる。この間にあの旅人たちに手鏡を奪ってもらう。
しかし、肝心の自分がシャンネス家に捕まってしまったら、元も子もない。
外で家畜たちが騒いでいるのが聞こえた。
家畜たちでも、主人の危機は感じ取るものなのだろうか。
ああ、あたしはどうすればいい。この男から、逃げる方法はあるのか――
一瞬、二十年前のビジョンが蘇ってきて、かっとなったラディアは燭台を男に向かって投げつけた。
男はそれを軽く避けた。燭台は床に落ち、そのまま炎は床に燃え移るかと思えた。
しかし、
男がパチンと指を鳴らすだけで、燭台の炎が消えた。
ラディアは目を見張った。部屋の中は真っ暗になったが、男の顔だけははっきりと見えるような気がした。感情のない、冷静な顔。
「ほ――炎!」
右肩の朱雀の《印》が燃えるように熱くなった。
全力で発した炎の球。
急速回転しながら、炎球は男に向かって走っていく。
しかしそれさえも。
男は指先を鳴らすことで、消し去ってしまった。
ラディアは悟った。この、男からは、
逃げられない―!
反射的に悟って、ラディアはさらに二歩後ろに下がった。
どん、と背中が壁にぶつかった。
つ、と汗があごまで伝ってきた。
男が迷いなく進み出てくる。まっすぐとラディアの元まで。
そして、手を伸ばしてきた。
捕まる! そう思った瞬間。
バチッ!
男の手から火花が散った。男が手を押さえた。まるで感電したかのように、男の腕がぶるぶる震えているのが分かる。
「光、散らばりて」
優しげにさえ聞こえる、女の声がした。
刹那に部屋中が光で満たされた。バチッ、バチッ、バチッ。火花があちこちに散って。
その光の乱舞の中で――
またもやその姿を現した男が、大きく体をそらした。その一瞬後には、男の体すれすれを剣の刃が通り過ぎた。
体をそらしたことで、男は乱舞していた光に触れて、再びバチッと感電した。
「くう……!」
「光よ輝きを増せ!」
高らかな女の声に、周囲の火花がまるで小さな花火のように華やかな色に変わる。
そして、男を囲んだ。
一歩でも動けば、男は間違いなく火花に触れるに違いなかった。
まぶしい輝きの中、男が唇を噛んだ。
「逃げるか?」
さらに、声。冷え切った、少年の声。
「逃げられるか? このまま、主の元まで」
「くそ……! 誰だ!」
男が吼えた。くす、と空気が小さく揺れた。
「つれないな。ついさっき力を交えたばかりじゃないか」
男の目が見開かれる。そんな馬鹿な、と唇が動いた。
華の火花で照らされた部屋の中。
いつの間にか、姿を現していた三人組。
右肩に朱雀の《印》をさらした女。剣を構えた茶髪の青年。そしてその後ろに圧倒的な存在感をもってそこにいる、黒髪の少年。
黒髪の少年は腕組みをしたまま、くすくすと笑っていた。
「飛んで火に入るなんとやら。ありがたいことだ」
「な、何を言っている……!?」
「カミル、やれ」
は、と短く応えた茶髪の青年は、剣を左手に持ちかえ、何も持たない手で器用に華の火花をくぐりぬけた。その手が、
どんっ! と男の胸を鋭く突き。
その勢いで男はまともに後ろに吹っ飛んだ。
後ろには火花の乱舞が――
頭の中にたくさんの火花が散った。体中の痛みすべてが集中したかのようだった。
朱雀の女が杖を振る。周囲の火花が消え、部屋が暗くなる。
その暗黒の中、男ががくりと地面に落ちる……
「イドル……イドル・シュナーディカ、か」
ラディアの床に改めて寝かされた男――四十歳と少しだろう――の胸に手を当て、シグリィはつぶやいた。
「シュナーディカ?」
それを聞いた、剣をしまったカミルが訝しそうに、
「まさか、北部の出ですか?」
「言っただろう。シャンネス家には玄武がいる」
「この男性が?」
「ああ」
「玄武って久しぶりに見たー」
セレンが「へ〜え」と言いながら、しげしげと失神している男を観察している。
そんな三人組の様子を見つめていたラディアは、つばを飲み込んでから、
「あ、あんたら……手鏡、は」
「ああ、すみません。この男の邪魔が入って失敗しまして」
シグリィは軽く返事をする。
ラディアは拳を握った。
「か、簡単に言うんじゃないよ! あ、あれはあたしの大切な大切な……!」
「大丈夫」
少年の声は自信に満ちていた。
「今度は失敗しませんよ」
「目を覚ましたか?」
――そう問う声が、やけに若い――
明らかに蝋燭の光ではない、明るい光を背後に、おぼろげな視界の中見えるものは、明らかに人の顔ではなかった。銀に光る……
銀に光る?
やがて光に目が慣れると、イドルの心臓が急激に引き絞られたように縮んだ。
目の前、まさに目の前にあったのは、剣の刃だった。
「拷問じみていて悪いな」
これは少年の声だ。声変わりしているかしていないかというていどの――
「さて、まず聞こう。お前の名前はイドル・シュナーディカ。間違いないな?」
イドルの心臓が跳ねた。なぜ名前を知られているのだ。どくどくどくどく。生きている証である脈の音がなぜこんなにも怖い。
「そしてお前はシャンネス家の……そうだな、前当主のしもべというところかな? 違うか?」
背後の光に照らされて、ギラリと光った刃がこの世の淵に見える。
イドルはその刃に気をとられすぎて、周囲を見るのを怠った。
しかし、それもそうだろう。少しでも目をそらしたら、その瞬間に刃は襲ってくるかもしれないのだから。
「違うなら正してほしいんだがな」
少年の声は冷静に、まるで氷塊のように胸にのしかかってくる。溶ければ染みこんできて、ますますの痛みを伴いそうだった。
しかし。
イドルにも譲れない一線はある。
彼には、忠誠を誓った男がいる。この街で困窮していた自分を救ってくれた人物がいる。二十年間も、その男に仕えてきたのだ。
と、そう思ったとき、ふうんと感心したように少年がつぶやいた。
「忠誠……自分を救ってくれた……二十年……仕えて……なるほど」
心の中を読まれている――!?
イドルはようやく思い至る。つい先ほど屋敷に侵入した三人組には玄武がいたはずだ。
熟練の玄武ならば、相手に強く思わせればそれを読むのはたやすいこと。
熟練の玄武?
この声の主が?
馬鹿な。混乱するイドルの頭に、少年の声はますます響いて。
「……二十年前に、ラディア・パールの手から手鏡を奪ったのはお前で間違いないな?」
二十年前――
思いたくもないのに記憶が戻ってくる。
シャンネス家に拾われて。その力はどのように使うのかと、最初は遊ぶようにダーグに扱われた。しかし自分は必死だった。うまくすればここで雇ってもらえるかもしれないと必死だった。
そして、やっぱり遊ぶようにダーグが言った言葉。
『下町のラディア・パールから手鏡を奪ってこい。それは美しい手鏡だそうだ――それをうまく奪ってくることができたら、お前を正式にわたしの側近にしよう』
願ってもいない言葉だった。
馬を走らせ、すぐにこの貧乏屋敷に来た。
ラディア・パールから手鏡を奪うのは簡単なことだった。最初はどの手鏡か分からなかったのだが、ただ一言「手鏡はどこだ」と言うだけで、ラディアはうまく引っかかって「これだけはやらないよ!」とその手鏡をあたふたと手に取った。
目標さえ分かれば後は簡単だ。
自分は玄武。
玄武の力。“理を無視すること”。
手鏡に力を加えれば、まるでそれは意思があるかのようにラディアの手をすりぬけ、自分の手まで飛んできた。
しっかりと、柄を握りしめた。
これで人生が変わる。
これで、故郷とも貧困ともおさらばだ。
おさらばだ、おさらばだ、おさらばだ……
ああ、視界がまたぼやけてくる。銀の光も鈍くなって。
このまま、自分が消えてしまいそうなほどあやふやな……
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