月闇の扉 - 「嫌いだった」
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 小さな村の、小さな出来事。
 そんなものでも、心に残るものはある。

 女の子が泣いていた。七歳ほどの女の子だろうか。村の端、木々しかないような場所で、、しゃがみこんでしくしくと泣いていた。
 あまりに泣き声が小さいものだから、村人の誰もが気づかないらしい。
 それともこの子が泣くのは日常茶飯事で、もう誰も気にしないのだろうか。嘘つき少年とオオカミのごとく。
「どうしたんだ?」
 だが、シグリィは村人ではなく旅人で、そして少女が泣くのを見つけてしまったから、声をかけた。
 しゃがみこんで、頭を撫でる。
 彼の背後には、カミルとセレンもいる。下手に口を出さないように、彼らは何も言わない。
 ぐすっとすすりあげた少女は、目の前の少年を見上げた。そしてまた、ぐすっとすすりあげた。
「たびびとさん?」
「そう」
 小さな村だけに、噂は広がっている。
 この村はあまり友好的ではなかったが、寝床は貸してくれたので、できれば三日ほどは滞在するつもりだった。空気がいいのだ。
 ぐしゅぐしゅ、と鼻が心地悪そうにしている少女は、鼻声で、
「ママ、おこってた?」
 と言った。
 どうやらシグリィたちが、少女の母親に頼まれて呼び戻しに来たと思ったらしい。
 シグリィは首を振って、
「いや、君のママには会ってない。たまたま君を見つけたんだ。……どうしたんだい」
 少女はうつむいてしまった。きゅっと、かわいい唇を引き結ぶ。
 それを解くにはどうしたらいいだろう。分からないが、とりあえずふわふわの紅葉色した髪を撫で続けた。
 子供の警戒心を解くにはいつだって、こちらが緊張感をみなぎらせたりしないことだ。
「この村はいいところだ。植物は多いし、空気はおいしい。水もおいしかったな。あの山からの水だね」
 だから、とシグリィは微笑む。
「君もこんな村で育ったから、こんなにかわいいのかな」
 後ろでぶふっとセレンが噴き出したのが聞こえた。げほげほと咳き込んでいる。何でだ? 分からなかったが、無視。
 女の子はずっと視線を下に揺らしていた。
 まあ、泣いている理由はともかく、泣きやんでくれたのならいいか、とも思った。
 もう少し傍にいてから、退散しよう――そう決めた矢先、
「おにいちゃん……」
 女の子がつぶやいた。
 自分が呼ばれたと思い、「ん?」と返事をしかけた。
 彼女はゆるりと首を振った。
「リナの、おにいちゃん……」
 ああ、この子の兄か。
「お兄ちゃんがいるんだな。どうした?」
「おにいちゃんとね、けんかしちゃった……」
 口が解けてきたようだ。女の子はぽつりぽつりと話し始めた。
「だってね、だってね、おにいちゃんリナのことけっとばしたんだよ。おかえしにけとばしたらね、おまえのけりなんかきかないぜって」
「ああ。蹴飛ばすのはいけないね」
 お兄ちゃんにしても君にしても。シグリィは柔らかい紅葉色を手ぐしで梳きながら、優しくそう言った。
 少女の目尻に、また雫がたまってきた。しばらくして、ぐすんぐすんと元に戻ってしまった。
「おにいちゃん、きらい。だいきらい」
 と、少女はそう言った。
 きらい、きらい、きらい。
 あちこちに撒き散らすかのように、その言葉だけを繰り返す。
 白熱したかのようにそう言い続けた後――
 ――急にしぼんで、
「……でも、おにいちゃんをきらいっていう、リナのこともきらい」
 ぐすんぐすん。鼻をすすり涙をぼろぼろ流し、少女は葛藤の中で泣いていた。
「リナ、いやなこ。きらい」
 ぼろぼろ、ぽろり。
 頬を濡らす透明な雫には終わりがない。
 どうしたものかと悩んでいたそのとき、
 ふいに、背後でじっと聞いていたセレンが口を開いた。
「思い出すわねー。ねえ、カミル」
「……そうですね」
 シグリィは首をかしげた。二人の間で今まで何かの会話があったわけでもなかろうに、二人は通じ合っているらしい。
 つい振り向くと、ふふ、とセレンは意地悪く笑って、
「昔のシグリィ様。私たちのこと、嫌ってらっしゃった」
「………」
 きょとん、としてから、思い出した。苦笑して、
「今さら五年も前の話を出すな」
「本当のことじゃないですかー。それに、私たちを嫌っている自分のこともいやだ、と言ってる部分も一緒ですよ」
「そうだったかな」
 恥ずかしい、という、シグリィにしては珍しい感情がわきあがってきて、彼は首の後ろをかいた。くすぐったい。今よりもっと若かった頃の自分の話をされるのは。
 特に、そう、目の前の二人の連れを信頼していなかった頃の話をされるのは。
 カミルがくすくすと微苦笑している。あのときの記憶は、彼にとっても多少は恥ずかしいものではないだろうか。
 一人、あの頃の思い出を満喫できるのはセレンだけだ。
「ねえねえお嬢ちゃん」
 と、気楽に紅葉色の髪の少女に話しかける。「このお兄ちゃんもね、昔私たちのこと嫌いだったんだって」
 え、と少女がシグリィとセレンをかわるがわる見る。
 シグリィは苦笑いしながら、肩をすくめた。
 女の子は、シグリィを見つめ、
「そう、なの?」
 まったくストレートな質問だ。ああ、とシグリィはきっぱりうなずいた。
「嫌いだった」
 ぶっ、とセレンが噴き出した。続いて腹を抱えて笑い出す。
 少女はますます興味深そうに、シグリィに顔を近づけた。
「そんなじぶん、きらいだった?」
「嫌いだった」
 でもな、とシグリィは表情をやわらげる。
「嫌いでも彼らとは一緒にいなくちゃいけなかったんだ。君がお兄ちゃんとはいつも一緒の家にいるように」
 少女はさらに顔を近づけてきた。夜明けの太陽の色の瞳が、ぱちぱちとまばたいている。
「そうしている内に、私は二人を嫌いではなくなったよ」
「ほんと? どうして?」
 心底不思議そうに、またストレートな質問。
 シグリィは微笑んだ。
「さあ、どうしてかな。二人のいいところも悪いところも、分かってきたからかもしれない」
 子供にはちょっと難しい物言いだっただろうか。少女は考え込んでしまった。
 紅葉色の前髪を梳き上げて、
「そんなに深く考えることはないよ。大丈夫、お兄ちゃんを好きになることは必ずできる。君がそれを望めば」
「のぞむ?」
「好きになりたくない?」
 彼女はちょっと考えてから、こくんとうなずいた。
「おにいちゃん……すき」
 ほら、言ってることがひっくり返った。
 これだから人間は面白い。

 泣きやんだ少女を家まで送る途中、おろおろと少女を捜し回る女性を見つけた。少女の母親だ。
 少女が飛びついていくと、母親は強く抱きしめ、「心配したのよ」とほろほろと嬉し涙をこぼした。
 少女が、シグリィたちのおかげで助かった、というようなことを言うと、母親はとても喜んで、家まで招待すると言ってくれた。
 家に到着すると、頬に掌のあざのできた少年が出てきた。
「……ごめんな、リナ」
 どうやら事情を知った母親に叩かれたらしい。
 少女は満面の笑みを浮かべた。
「おにいちゃん、すきー」
 兄は多大に面食らったようだった。後ろで、シグリィたち一行は、噴き出した。

 まったく、人間というのは面白いもので。
 ころころと意見を変えるもので。
 ころころと動く感情は、だからこそ大切なもので。
 ころころとそうやって生きていくのだろう。

 その日の夕食。少女の母親のお手製ピザにサラダ。
 そして添えられたビワの実には、ぎっしり種が詰まっていて。
 まるで仲のよい兄妹が、離れるものかと狭いところに隠れているかのようだった。

 ―FIN―

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