海辺での一幕――
「わーい、砂浜ー!」
セレンが大喜びで白い砂浜に飛び込んでいき――
砂に足を取られて、すってんころりんと転んだ。
大きな波が、ざぶんと音を立てる。笑うように。
「んもー、ひどーい」
顔についた砂を払うセレン。立ち上がることをしないのは、砂浜が暖かいからだろうか。
「その靴で砂浜を歩こうというあなたの気が知れません……」
カミルはセレンの、ヒールの高い靴を見ていた。
目の前は壮大な海。海と空の境界線は遠く、世界が広いことを思い知らされる。
「あー、気持ちいー」
腹ばいになったままのセレンが上げる嬉しそうな声に、カミルが同意の言葉を返そうとすると、その前にセレンは次の台詞に移っていた。
「ところでシグリィ様は?」
「シグリィ様は……」
砂浜を見渡す。
主たる少年がいない。
ついさっきまで一緒にいたのだ。はぐれたなんてことは、ないはずなのだが。
しかし慌てて捜すまでもなかった。
「おーい」
少年シグリィは、遠いところからぬれねずみで帰ってきた。
「どうしたんですかシグリィ様ぁ」
セレンが目を丸くする。上体を腕で支えて起こして、シグリィを迎えた。
少年は腕に、何かを抱えていた。
近くに来るとすぐに分かる。――石だ。決して丸くない、角ばった石。
「そこの岩礁にあった」
いつの間にそこまで行ったのか知らないが、少年は海の辺りを指差すと、石を二人の前に掲げて見せた。
このときにはもう、セレンは起き上がって砂浜に座り込んでいた。
「なんですか、それ」
普通の石にしか見えない。灰色で鈍重な。
いや――
太陽の光に当てると、きらきら輝いているようにも見える。
シグリィはセレンの前にその石をかざすと、
「これは『人魚の石』だ」
と言った。
セレンが大きく目を見張った。カミルは訝しく思って、尋ねた。
「何ですか? それは」
「うん。伝説上の石なんだけどな」
それはこんなおとぎ話。
ある人魚が、ある人間に恋をした。
彼とともに在りたいと、海の中の魔法使いに願って薬をもらった。
しかし人魚の仲間たちは猛反対をした。それだけは絶対にいけないと。
それでも考えを曲げない人魚。仕方なく人魚の仲間たちは、魔法使いにお願いをして、人魚を石の中に閉じ込めてもらった――
「――主に南部に伝えられているおとぎ話だ」
セレンは碧い瞳をきらきらさせて、
「その続きはこうですよね? 『その石をごしごしこすればやがて石は透き通り、人魚は愛する人と会うことが出来る』」
「そうだな」
「どうして――」
カミルは問わずに言られなかった。「それがその『人魚の石』だと?」
シグリィは苦笑した。
「――この石の中に、生命反応があるんだよ」
絶句するしかなかった。
セレンが、宣言した。
「私、石を磨きます。人魚がかわいそうだから」
何がかわいそうなのか、セレンは正しく分かっていただろうか。
なぜ人魚の仲間たちが石に閉じ込めてまでそれを阻んだのか。
どうするのが正しいことなのか、分かっていただろうか。
それでも彼女は進んだのだ。自分の感情のおもむくままに。
その日からセレンの日課は、石を磨くことになった。
ごしごし、ごしごし。
硬い素材の布を使って、ごしごし、ごしごし。
熱中しやすい彼女は、朝も昼も夜も、それこそ寝るのを忘れるほどに没頭していた。
「この石、ちゃんと削れていくのよ」
とセレンは嬉しそうに報告してくれる。
町につき、宿についても、珍しく宿に閉じこもってひたすらごしごしとこする。
やがて角ばっていたあの石が丸くなり、小さくなっていく。
それはいったい何日目のことだったか――
その町で名物の音楽隊の演奏を公園で聴くのが日課になって、主とともにそれに浸っていたときのことだ。
セレンはひたひたとやってきた。
前触れがなかった。――ヒールの音がしなかったのだ。
カミルは驚いて、
「なんで裸足なんです?」
セレンはうつむいていた。
主はセレンの手元を見ていた。セレンが最近手に入れたお気に入りのスカーフ、それが彼女の手にのった何かにかぶせられている。
何に?
ひとつしかない。
「『人魚の石』ですか?」
主が難しい顔をしている。
間があった後、セレンがこくんとうなずいた。
「――場所を変えよう」
と言ったのは主だった。
にぎやかな音楽隊。その喧騒から逃げるように、三人は公園を後にする――
公園はもうひとつあった。こちらは大広場の陰になって、寂れてしまっている。この昼下がりの時間帯に人っ子一人いない。
セレンはまだうつむいていた。男性陣の方を見ようとしない。
最近のセレンは、髪型を一切気にしていなかった。今も黒い髪をさらりと流したままだ。
そのことがいっそう、彼女の背中を寂しげにさせていて、カミルはやるせない思いになる。
「……どうしたんです?」
つい尋ねると、くい、と主に服の裾を引っ張られた。黙っておけ、という合図らしい。
沈黙が流れた。重い重い沈黙。何か嫌な予感をかぶせられたような、そんな重さ。崖から落ちそうになって危うく手を引っかけたような、そんな危うさだ。
すすり泣きが――
聞こえてくるまで――
かなりの時間が、あった。
セレン、と主が小さく呼んだ。
すん、と鼻をすすって、セレンは顔を上げた。空を見上げて。
真っ青な空。
ぎらぎらと燃える太陽。
「人魚は、太陽に恋してた」
セレンは歌うように口にした。
「だから太陽を見た瞬間、太陽と共に在れる姿に変わったの」
それはまさか。
セレンがスカーフを取り払う。
人魚の石は中が透けていた。中には水がなみなみとたゆたっており、そして他に誰もいない。
「人魚姫、泡となって消えた」
――いったいどうして同胞たちに反対されたのか――
「泡になることこそが、彼女の望みだったから」
――同胞たちがそれを許すはずがなかったから――
「愛する人と、ともに在るために……」
何年ぶりだったのだろう、と彼女はつぶやいた。
何年ぶりの、逢瀬だったのだろう、と。
石に閉じ込められて太陽と会えなくなって、いったいどれだけの年月が経っていたのか。
もしも永い永い間閉じ込められていたのなら、なんとすごい愛情だったのか。
「願いを叶えたのは正しかった……?」
囁きに、答えられる者はいない。
「人魚石を見つけたのは正しかったのか?」
疑問に、答えられる者はいない。
ただ、こういうしかないのだ。
「……きっと、運命だったのでしょう」
初めて振り向いたセレンが――
疲れたように、寄りかかってきた。
肩口に顔をうずめて、つぶやく。
「正しい、間違いの問題じゃ、なくて」
――ええ。
「自分本位で行ったことだから、自分が満足できるかどうか」
痩せた体が呼吸で上下する。
――あなたは満足できましたか。
「満足よ」
強がりのようでいて、それは彼女のたしかな答。
「なら、強く立ちなさい」
自分はそう言った。
セレンは顔を上げて、
「いけず」
と笑った。
太陽の熱さに焦がれた姫は、果たして太陽の元へ行けただろうか?
せめてそれだけを願おう。
それしか出来ないから。
太陽の光に、人魚の影を重ねて――
―FIN―
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