酒場から、人々がわらわらと慌てた様子で出てきた。
「何があったんだ?」
出てきた一人の青年を捕まえて尋ねると、
「高利貸しだよ! 今入るのはよした方がいい!」
この店も終わりだ! そう叫んで、青年は逃げ出した。
酒場に入ると、ありがちな騒ぎが起こっていた。
「おらおらおら! 借金の期限は今日までなんだよ!」
ガラの悪い男が三人、辺りのテーブルや椅子を蹴飛ばしながら老年に近い男性に迫っている。
老年に近い男性はマスターだ。昨日もこの店に来たから知っている。
バキッ! 再びテーブルが蹴飛ばされ、テーブルの脚が折れた。
「きょ、今日のはずがない……!」
マスターは必死のていで反抗していた。
「契約書には一年後の日付が書いてあるはず……!」
「その契約書をどうしたよ。ああ?」
男はすごんだ。マスターは震え上がった。
しかしそれでも最後の矜持で、男たちから目を背けない。
「け、契約書はあんたらがどっかへやったんじゃないか! 私が持ってきたのをすぐに奪い取って、どこかへ――」
「契約書がないんだったら、俺たちが契約書代わりになってやるよ。期限は今日だ! しめて四千七百万ラープ、払えないなら店を明け渡せ!」
「冗談じゃない……!」
マスターは粘っていた。「先祖代々受け継いできた店だ、簡単に渡せるか……!」
「じゃあ金を出せ。そうだろう?」
「そ、そんな金に化けるなんて聞いていないっ」
「ちなみにいくら借りたんです?」
「七百万ラープ……ん?」
突然割り込んできた声に、つい返事をしたマスターは、きょとんと目の前の大男を見る。
リーダーの大男は顔に傷がある。いかにも歴戦の強者と言った風体だが、今の声はこの男に似つかわしくない、若い少年のものだったような……
先に気づいたのは、男たちの方だった。
「てめっ、いつの間に入ってきた!」
不意をつかれたことに憤慨して、また近くのテーブルを殴り割る。あああ、とマスターが泣きそうな声を上げた。
「どうもお邪魔して」
と少年は言った。「このお店の客なんだが、取り込み中らしいな?」
後ろには青年と娘もいる。
「あーあ、ほとんどのテーブル壊れちゃってるー」
「いいテーブルだったんですけどね」
三人して呑気なものだ。
「おいお客さんとやら」
顔傷の男が首を伸ばして少年に迫り、
「ほとんどの客が逃げたってのにいい度胸だな。状況分かってるか? 分かってるとしたらバカと呼んでやるが」
「そうか。じゃあバカと呼んでくれ」
ちゃっ、と少年は片手を挙げた。
「ちょっとその辺のテーブルに座って待っていてもいいかな。マスター、注文したいんだけれども」
「あ、あのうお客さん、今それどころじゃ……」
「用事が終わってからでいい。私たちは暇だから」
「いや、そういう問題じゃ……」
顔傷の男は呆気に取られ、続いて顔を真っ赤にした。
「お前ら正真正銘のバカか……! 状況、分かってねえのか、マジで!」
「分かるさ。お前ら悪徳高利貸しが、善良な酒屋のマスターを脅しているんだろう?――あ、カミルセレン、そこのテーブルキープしておこう」
「はーい」
「これは一番いいテーブルでしょうか」
青年と娘が先に座った。少年は最後に、呑気にそこに向かおうとした。
しかし襟首をがっつりつかまれ、
「てめえみたいなふざけたガキは――!」
ぶっとい腕が、少年の軽い体を持ち上げる。
「おー。持ち上げられたのはカミル以来かもしれない」
ぱちぱちと手を叩く少年に、とうとう我慢の限界突破。
「死ね!」
ぶんっ、と男の太い腕が唸りを上げ、少年の体を投げつけた。
たくさんのテーブルの残骸を巻き込み、若い体は壁に激突する。
「どうだ」
太い腕の男はふんっと握り拳を作って自慢げにする。
「よくやった」
とこれは顔傷の男で、満足げに壁際でぐったりとなった少年の姿を眺めた。
「お客さん!」
マスターは少年に駆け寄ろうとする。
しかし顔傷の男に襟首をつかまれ、
「お前も同じようにされたいか? ん?」
「よ、よくも客に手を出したな……!」
顔を真っ赤にしたマスターの、首筋が光った。
カウンターの中にあったいくつもの酒瓶が、次々と宙に浮かんだ。
もう――マスターの堪忍袋の緒が切れた。
酒瓶の栓がきゅぽっ、きゅぽっとはずれていく。
首筋に現れる青龍の《印》の支配下に置かれるのは、植物と水分――だ。
酒をぶっかけてなんになる?
けれど何かを仕返ししたい。そんなマスターの思いがにじみ出た行動だった。
しかし、
「する必要はありませんよ、マスター」
と、テーブルについている二人の客の内、青年が言った。剣を帯びている青年だ。今は腰からそれをはずし、椅子に立てかけていたが。
「お酒もったいないわよーマスター。ね、今は抑えて抑えて」
これは娘の方だ。
たしかこの客は昨日も来て――
青年はミルクを、娘が酒を、少年が果実酒を飲んで盛り上がっていたのではなかったか。娘が酔っ払って周りの客を巻き込んで、大変なことになっていた。そうだ思い出した。
少年の名はシグリィ。青年はカミル、娘はセレン。マスターとして、元々人の名前はすぐ覚える方だが、それを上回ってしっかりと名をマスターの心に刻むほど、印象的な彼らだったのだ。
思い出したとき、マスターの怒りはすうっと溶けて、酒瓶の栓が再び戻り、棚に鎮座していく。
「しかし彼が……」
マスターが壁に叩きつけられたシグリィを指差したとき、
「あいたたた……」
少年は身じろぎした。
はっと凝視すると、テーブルの残骸に埋もれていた少年は、顔を上げた。
首をぐりぐり回して、それから、
「あー。久しぶりに少し痛かった」
けろりと。
マスターたちの方を見て、そう言った。
顔傷たち一行がぎょっとする。
「シグリィ様ぁ」
セレンが両手で頬杖をつきながら、「何でわざと投げられたんですー?」
「少しは心配しましたよ」
とこれはカミルだ。
わざと……投げられた?
誰もが呆然とするその言葉。しかし少年はなんでもないことのように、テーブルの残骸を押し分けて立ち上がり、パンパン、と服を叩いて屑を払った。
「シグリィ様?」
「ん。投げられる瞬間にこれが目に入ったものだから」
と彼が持ち上げたのは、一枚の紙――
マスターは大声を上げた。
「け、契約書……!」
「なんだと!」
顔傷の男が思わずマスターの襟首を放す。
「そ、そんなはずは。契約書はたしかに燃やしたはず――」
男の仲間がうっかり白状した。ふうん、と少年はまじまじと契約書を眺め、
「これを燃やすのは、ちょっと無理だろうなあ。お前たちはただの偉そうに見える紙だと思って使ったんだろうが」
「え、ええと、シグリィ君? その、契約書は」
マスターが名を呼ぶと、少年は嬉しそうに微笑んだ。
「名前、覚えていてくれたんですか」
「いや……私は一応マスターだからね……」
「しかも今さっき、私が投げつけられたとき、怒って下さった」
「お客様は私にとっては神様だ」
シグリィはにこっと笑った。
「お礼をしなくてはなりませんね」
そして彼はマスターと、高利貸し一行の元へやってくる。
つきつけてきたのは、契約書。
「借金受付日は一年前。借金支払い期限は一年後。年利は百分の一。どう考えても四千七百万ラープにはならないな」
「なぜ燃えなかったんだ!」
もう隠すつもりもないのか、高利貸しの一員が情けない声を上げる。
シグリィは契約書の四隅を示した。
「ここの四箇所。魔法陣があるだろう?」
「それがどうした!」
「お前たちはこれを見て、それっぽい契約書になるとふんだんだろうが。実はこれは本物でね。一般に結界符と呼ぶ」
「結界……?」
それは玄武の《印》を持つ者にしか生み出せない、奇跡の境界線ではないのか。
「結界符は朱雀の《印》を持つ者が、何とか結界に似た効果を生み出せないかと研究したあげくに作られた符なんです。だから当然ながら――」
シグリィはにっこりと笑った。
「一般的な威力の朱雀の術は効かない」
その黒い瞳が、さっきから嘆いている高利貸しの一員を貫く。
「お前は朱雀だな?」
――高利貸したちは、観念したようだった。
「くそっ! 仕方ねえ、ここは退いてやらぁ!」
「ああ、待った待った」
と今度はシグリィがピン、と顔傷の男の服を引っ張る。
ああ? と振り向いた顔傷の男に、
「契約書に書き足しです。テーブルとか破壊した損害分は、ちゃんと引いてもらわないと」
また顔傷の男がゆでだこのごとく真っ赤になった。拳が、シグリィに向かって飛ぶ――
次の瞬間、悲鳴を上げていたのは、ゆでだこ男の方だった。
「あまり人を傷つけようとしないように」
銀の短剣で拳を切りつけられ、血を流しながらゆでだこはシグリィを悔しげににらんだ。
シグリィは何事もなかったように、
「さあ、契約書の更新を始めましょう」
ペン、ペン、とマスターを急かし始めた。
結果――
なぜか貸し金が下がり、利率も下がり、期日も遠くなった。
この店が確実に払えるよう計算したらこのような数字が出たのだ。
高利貸しは何度も捨て台詞を言いながら、店を出ていった。
マスターが、はあっと大きく息を吐く。
「ダメですよ。あんなのに騙されちゃ」
「……店を増築したかったんだ……」
「ええ、いい店ですからね」
では、とシグリィはにっこり微笑む。
「人心地ついたら、注文取りに来て下さいね」
そう言って、自分の二人の連れが座っているテーブルへ歩いていく背中に、思わず声をかけた。
「どうして助けてくれたんだい」
振り向いた顔は、いたずらっぽく片目をつぶった。
「ここの果実酒はおいしいんですよ」
やがて客がたった三人しかいない酒場で、宴会が始まる――
―FIN―
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