Without Wings
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〜10〜


 あの日、空はどんな表情かおをしていただろう。

 よく分からない。たしか、雨だったような気がする。そう、雨だったからこそ……自分は驚いたのだ。
 一年七組の教室に。自分の教室に、学校へ来なくなったはずの兄貴が現れたこと。
 兄貴は雨が嫌いだった。あの時・・・から、とても嫌うようになっていた。雨のにおいは、かつて雨などもろともせずに外を走っていた自分を思い出して気持ちが悪いと。
 その兄貴が、雨だというのに家から出て自分に会いに来た――そう、だから驚いたのだ。
 それは覚えている……
 そのはずなのに、記憶があいまいだ。
 理由は分かっている。あの日を思い出すたび、自分の脳裏に甦るのは雨ではなかったから。

 燃えるような夕日。

 雨であったはずのあの日には、決してありえないその景色。
 記憶さえあいまいにする、鮮明すぎるその赤い色が、いったい何なのか……

『孝也クン』

 兄貴を呼ぶ声。
 授業中の教室に、乱入してきた兄貴を、追ってきたその存在。

 ニゲナイデ

 逃げる?――そんな訳がない。
 兄貴は、逃げている訳じゃない。本当はまっすぐ走り続けたかったのに、その方法を奪われてしまっただけだ。
 逃げてなんかいない。俺の兄貴をおとしめるのはやめてくれ――
『分かっているんでしょう?』
 何を、分かっているというのか。
『自分が、何から逃げているのか』
 兄貴が、何から逃げているというのか。
 そんなはずはない。そんなはずがないのに。
 ――兄貴は、その言葉にたしかに動揺していた。
 その瞬間だった。兄貴を、いつもの発作・・が襲ったのは。
 猛獣のように暴れだす兄貴――
 けれどそれを予想したかのように、その連中はあっさりと兄貴の動きを封じ込めた。とても不思議な力で。
 何かに怯えるようにひどく震えていた兄貴に、連中の中から、一人が――さっきから兄貴を追い詰めている人間が、歩み寄っていく。
 アナタノアシガ

『……本当は、治る可能性があること』

 兄貴は、何に背を向けて道を踏み外したのだろう。
 いったい何に、そんなに怯えていたのだろう……
 分かっていたはずのことが、すべて覆されていく。

 ――ちゃんと見てろよ? 慎也――

 ああ自分は、いったい何を見ていたのか。

 足が治っても、前のような走りが出来るとは限らなかったから。
 ――空を飛べるとは、限らなかったから。
 だから怖がったのだろうか。
 ……もう一度、走り出すことを。

 あの人が、兄貴のすべてを知っていたわけじゃない。
 むしろ、何も知らなかったのかもしれない。
 それでもその人の言葉は、たしかに力強かった。

『あなたが本当にやりたいことは何なの?』

 その時あの人の背に自分が見たものは、
 目を焼くような赤い色――

 誰もが避けてきた問いを投げかけられて、兄はようやくぽつりと口にした。こぼれる涙はおさえきれずに――

 ――空を、飛びたい。

*******

 教室の戸口が、勢いよく開かれる。
「ほら、ここだよ先輩――」
 戸を開けた慎也が、嬉しそうに後ろにいた未来を振り返る。
 一年七組の教室。
 未来がここに来るのは半年ぶりだが、何が変わっているわけでもない。ごく普通の教室としてそこにあった。
「懐かしいよね――」
 弾むような声で言いながら慎也は教室に入っていく。
 生徒達の喧騒の名残を残す、誰もいない教室。あちこち列がゆがんだ机たち。その間を、時に机にぶつかりながら慎也は進む。ぶつかることは日常で、机の脚が床をすべる音さえ楽しむように。
 そして彼は、ひとつの席のところで立ち止まった。
「ほら、ここがあの時の俺の席。入り口に近いから、兄貴も入ってきてすぐに俺のこと見つけられて――痛かったよなあ、兄貴に引っ張られた腕」
 机に手をかけ楽しそうに独り言を言う。そんな少年の姿を、未来はただ見つめる。
 そんな未来の反応は気にしていないのか、慎也はかつての自分の席から顔を上げて続けた。
「それで、先輩たちも追ってきてここに入ってきて――兄貴が発作起こして暴れ出して。実戦は、他の人がやってたよね。先輩は見てただけで」
「実戦向きじゃないのよ私は」
 肩をすくめて答える。
 慎也はおかしそうに笑った。
 ――この子は、《闇》に憑かれ始めている……
 未来には確信があった。
 《闇》に憑かれる兆候に、気分が高揚するハイになるというものがある。さらに、段々理性が失われていく。普段当たり前に出来ている判断が出来なくなる。そして、言動に変化が現れる。
 ――つい昨日までの慎也は、自分に対して丁寧語を使っていた……
 危険。慎也の様子にそれが分かっても、どうすることも出来ない。
 彼女には、《闇》自体を見る力がなかった。唯一見ることが出来るのは、完全に人間に取り憑きその力を示し始めた《闇》だけだ。
 慎也はまだ、完全に憑かれていない。だから、未来にはその気配をとらえることが出来ない……
 ――かみしめた唇に、感じる小さな痛み。
 視線の先で、少年が今度は教室の窓際に向かっていた。
「《闇》の発作で暴れた兄貴をおさえて……その兄貴に、先輩が声をかけてた。そうだ、その時ちょうど先輩は窓を背にしててさ――」
 窓際にもたれて、未来を見る。唇が、かすかに笑みを刻んで。
「先輩の後ろに、夕日が見えた」
 あれは何だったんだろうね――
 呟いて、それから再び未来に背を向ける。
 彼の前には、窓。
 今日も夕焼けだった。
 少年は、囁くように言った。
「……今日のより、ずっと綺麗な赤だったよ」
「………」
 その背に、未来はゆっくりと近づいた。
 ――慎也が純から指輪を奪ったのはたしかなのだ。自分は、それを取り返さなくてはならない。慎也が話して聞くような状態ではもはやなくなっていたとしたなら、力づくでも。
 歩み寄る。安全用の手すりをつかんで空を見る少年に。
 すぐ傍らまで。彼の横顔が見えるほどに近づいて……
 と、慎也は窓を開け、手すりから身を乗り出した。
 長身の彼は、手すりの意味がないほどに軽々と窓の外へ体をかたむけた。
 危ないよ――と、未来が口を出す前に、
 がくっ――
「うわっ!」
 バランスを崩してすべった手が手すりから離れる。彼は大きく体勢を崩した。窓の外へと――
 ――ここは四階――!


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