| Without Wings 〜12〜
「慎也くん!」 未来は彼に向かって一歩足を踏み出した。しかし、 炎の一部が慎也を巻き込んだ。 鼓動が凍りつくような一瞬――けれど未来の感覚が、違う――と告げる。 違う。慎也は無事だ。 それはすぐに証明された。慎也を襲った炎が霧散し、未来の視界に少年の姿が戻る。 床にうずくまって頭を抱えている少年。それを見た未来の脳裏に、ひらめいたものがあった。 ――ひょっとして……今の炎は。 つばをのみこもうとする。だが口の中はカラカラで、かすかな痛みを発していた。 自分の額に、手に汗の伝うのを感じた。教室を埋める炎は本物なのだ。それを改めて思い出して、急に息苦しくなる。 意識するとしないとではすべてが変わってくる。 だが炎は……彼女にとって恐ろしいものではなかった。 自分にとって炎は、手足なのだ。 未来は呼吸を取り戻した。そして、 「慎也くん……!」 と怒鳴るように声を上げた。「私の声を聞きなさい! 慎也くん……!」 物は燃える時、決して無音ではない。 同じ教室内にいる相手に声を届けるのさえ、今は容易ではない。 それでも未来は彼の名を呼び続ける。 慎也が応えるとは限らなくても―― 否、応えるはずだと彼女は信じていた。 ――先ほどの炎が、自分の考えた通りだったなら―― 「慎也くん……!」 何度目かの呼び声に。 ……少年は、反応した。 怯える動作で小さく少しずつ、抱えていた頭を上げる。 完全に生気を失った瞳が、未来を見た。 通じる――思った通り、先ほどの炎は慎也の《闇》を 浄化ではなく、消滅。完全に《闇》が取り憑いた状態でやれば、《闇》とともに本体の人間の心さえ消し飛ばしてしまう可能性があるその行為。《火》属性がもっとも得意とすること。 成長を始める前の慎也の《闇》にならば効果があったようだ―― 未来は炎と煙に怖気づくことなく、凛として立った。見つめる慎也の目を裏切らないために。 「この炎はね」 静かに、しかし力をこめて、言葉を紡ぐ。 「きみが、起こしたものよ。きみの心にその《火》の指輪が反応したの――きみが、《火》の力を引き出してしまった」 そんな……と、消え行くような声が返ってきたような気がした。 「いつか教えたでしょう? だから、《火》は危険な力だって」 ――時には持ち主以外の心にさえも―― 「《火》の持ち主に選ばれるということはね」 未来は微笑した。 「……両刃の刃だから。一番、情緒が安定している人間がなるんだって。ちょっとやそっとじゃ動揺しない、心を表さない人間――」 「そんなの!」 慎也が声を上げた。一瞬恐怖を忘れたかのように。 未来はふと目を伏せ、独り言のように呟く。 「……逆に力を引き出しにくい《地》は、それだけ感情の強い人間でなくてはいけないの。時に情緒不安定とも言えるような……感じやすくて、流されやすい、そんな人間が……」 脳裏に、友の顔が浮かんで消える。 再び視線を上げる。教室内の道具類はもはや原型を留めていない。 熱い。苦しい。そんな単語を今は忘れて。 二人を遮る炎の向こうで、慎也が床に膝をついたまま何かを問うような視線を向けてくる。 「知ってる? 慎也くん」 未来は唇を笑みの形にした。 「火はね、昔から勇気の象徴なのよ」 少年は虚をつかれたような顔をする。それにくすりと笑って見せ。 「かつて神に仕える巫女は、その忠誠心と勇気を示すために炎の中をくぐったんだって。炎ほど、見ているだけで恐怖を伴うものはそうないから――」 言いながら背後にあった窓の手すりに指先を触れる。金属の棒はすでにやけどしそうなほど熱い。 窓は、先ほど慎也が開けてからずっとそのままだ。煙は外へも流れていた。 誰かが気づいてくれるまで……果たして自分たちはもつだろうか。 考える。だが冷静に見て、安心できそうな要素はない。 けれど――未来は笑んだまま呟いた。 たった一つの言葉を。 「勇気」 感じる、慎也の視線。 思えば彼に相対することも、気軽なことではなかった。 自分は彼に期待されている。それを壊すことに、心のどこかで怯えを感じながら―― けれど、怯えたままでいて何になると言うのだろう? 必要なのはたった一つ。怯えを打ち消してあまりある強い力。 「孝也くんが必要としていたもの……」 ――以前の自分を取り戻せないかもしれない、そんな恐怖に打ち勝つ力。 そして再びコースに立った彼。コースに立ち、自らの望みを叶え始めた彼。それを思って、未来は満面の笑みを浮かべる。 「火は、その象徴なのよ。《火》の術者に選ばれるなんて誇らしいことだと思わない?」 ごうっ 重い音をたてて、二人の間の炎の壁がさらに高くなった。 |
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慎也の姿はもはや炎を通して黒い影にしか見えなくなった。 向こう側で、ごほごほと咳き込む音がして、 せんぱい、と声が聞こえた。 「指輪を、しっかり握っていて」 未来は強く、炎の壁の向こうに声を投げかけた。 「聞こえるわよね。いい? 絶対に離さないで」 ――慎也が持っているのは、《火》の指輪。 自分の、指輪。 指にはめていなくても…… 「出来る」 未来は声に出して呟いた。 出来る。つながる。通じることが出来る。 念じる。強く、強く…… ――今は何もないはずの左薬指に、ふっと重みを感じた。 何が現れたわけでもない。けれど確かにあった。指輪が、そこにある感覚が。 彼を―― 「慎也くんを、ここから連れ出して」 ぎりぎりになって未来のやろうとしていることを悟ったのか。 「先輩!」と悲鳴に近い声が、最後に残された。 炎の壁の向こうにあった少年の影が、刹那のうちにかき消えた。 どっと、ありえないほどの重さが体にのしかかってきた。力を使った反動。とりわけ難しい自分以外の瞬間移動を、指輪をはめないままに―― がくりと窓際にへたりこみそうになる。手すりにつかまろうにも、手すりは焼けるように熱くなっている――自分で自分を支えるしかなかった。 少年が目の前からいなくなったことが、緩めてはいけない糸を緩める。 不意に煙を吸い込んで、未来は大きく咳き込んだ。咳き込めば肺の中の酸素がなくなる。さらに苦しくなる。悪循環だというのに。 ぱちぱちと、あちこちで炎が弾ける音。 ……熱い。 ……クルシイ。 「……馬鹿言ってんじゃないわよ」 次々と頭に浮かんでくる言葉を切り捨てて、未来は足に力をこめた。閉じそうだった目を見開いて、目の前の光景を確かめる。 炎。自分の手足であったはずのもの。 ――指輪がない今、それは凶器でしかない。 戸口はとっくの昔に炎に包まれ、廊下側に行くすべはなくなっている。 すでに嗅覚は失われ、匂いは感じなくなっていた。教室にはどんなものがあるか分からない。もし匂いを感じていたならば、刺激臭で失神していたかもしれない。 嗅覚を閉ざしたのは、防衛本能か。 「……まだ、生き延びる気がありすぎるのよね」 唇の端をぎゅっと結んで。 彼女は振り返った。背後の窓を。 煙でだいぶ視界がにごった世界の中、その隙間から別の赤い色が見えていた。 ――慎也はかつての自分の背に、夕日を見たという。 「光栄じゃないの」 夕日ほど力にあふれた存在はないと、未来はそう思っている。 勇気の象徴である炎。そして力あふれる夕日。 自分にはそれがある。 (だけどまだ――) ……まだ、足りない。 煙を何とか避けながら、窓から下を望む。 ここは四階。高さも相当ある。 ここから逃げるには、まだ足りない。 地面の遠さを強く感じながら、未来はふと思い出していた。 ――ひとは、翼なしでも…… 「……まだ、足りないのよ」 翼なしで飛ぶには―― 視界のずっと端に、校門。 そして、そこから走ってくる人影。 それを認めて、未来は微笑んだ。 確信に満ちた、それは力強い笑みだった。 |