Without Wings
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〜14〜


「……お前の痛みは、私には計り知れない……」
 慎也はその一言にぴくりと反応する。
 純は続けた。
「分かるわけがない。それは遠伸にしても同じだ。あの状況を見るだけでお前がどれほど苦しいかなんて、考えている場合じゃない」
 少年の瞳に力が戻る。
 憤怒が。
 けれど純は、それを見て安堵する自分を感じた。大丈夫、この少年はまだ……
 くるりと、少年に背を向ける。
「……それでも遠伸は――お前に、見てほしいと望むんだろうな」
「井波。どうする?」
 慎也を支えたまま葛西が訊いてくる。純は振り向かないまま答えた。
「私の指輪は、たぶん遠伸が持ってる」
 感じる指輪の鼓動。
 呼んでいる。
 指輪が。そして友が――
 四階に見える姿。未来もまっすぐ純を見下ろしているのが分かった。
 炎が未来を避けているのも見て取れた。おそらくこのままなら、炎自体で彼女が危険になることはないだろう。
 ただし――建物が崩れでもした場合、どうなるかは自明の理だ。
「なあ、池上――」
 背後に感じる少年の視線に、彼女は語りかけた。
「あいつは“勇気”って言葉が、前から好きだったんだ」
 慎也が何かを呟いたような気がした。耳には届かなかったが――
 純は、肩越しに振り向いた。
「見ていろよ。尊敬する先輩の“勇気”を」
 微笑みひとつ。
 君らはまさか――と息をのんだのは、青年教師のほうだった。
 応えず、純は視線を戻す。
 黒煙がもうそろそろ暗くなりかける空に混ざりこむ。侵食されていく空。
 足早に校舎ぎりぎりまで近づいて、もう一度四階の様子を確かめる。
 未来が――
 にっこりと、微笑んだような気がした。

 窓に見える娘が、その手から空中に何かを放り投げた。
 下で見上げる娘が、大きく手を伸ばす。
 それは寸分たがわず――まるで吸い込まれるかのように、本来の使い手の、あるべき指におさまった。
 自ら、それを望んだかのように……

 ――ひとは翼なしで、空を飛べると思う……?
 純はふと、その問いを思いだした。
 慎也にそう問われた時、自分は即答した。
「人間が空を飛ぶ必要はない」と。
(必要がない……。いや、必要があるかどうかの問題じゃなかった――)
 目を細め、足元を見下ろす。
 自分が足をつける地上。
 そのあたたかさを、純は知っている。
(ただ、空を飛ぶ以前に……少なくとも私は――まだ、地上でやることがあるんだ)
 地上に在る自分が一番当たり前で、一番自然であることを知っている。
(だから私は、地上ここでやるべきことをやる!)
 左薬指に、慣れた感触。
 ほのかにぬくもりがあるのは、きっと未来が握りしめていたせいだろう――
 その黒い宝石の深い輝きが、とても強くて。
 とても美しくて。
 思い出す。自分がかつて初めてこの指輪をはめた時、かの生徒会長が言った言葉――

『似合うよ。ぴったりじゃない』

 純は微笑んだ。
 最初は優しかったその笑みが、次には力強いものに変わった。
 戦士の顔に。
 そして彼女は、
 友に向かって。大きく両腕を広げた。

「遠伸! 来い!」

 翼なしで空へ飛び出そうとすることは、どれほどに勇気がいることだろうか……
 それでも未来は、そうすることをためらったりなどしないのだ。
 何故なら彼女は知っている。
 そこに、心から信じられる友がいることを。

 慎也が、すべてを拒んでいた少年が、初めて顔を上げたのを見た。
 彼はどう思うのだろう。地上で腕を広げる人間のことを。
 それをまっすぐ見下ろす人間のことを。
 それを思って、呟くのはたったひとつの願い。
「ちゃんと、見ていてね、今度こそ……」

 そして彼女は、窓の外に躍り出た。

 ひとは、翼なしでも飛べる――
 その勇気を、出すことができる。

   ――そこに受け止めてくれる地上があると、知っているから――

 最後の瞬間を、未来は覚えていない。
 けれど、もう一度光が見られることを信じて疑わない彼女には、そんなことは大したことではなかった。
 ただ……わずかな間身に受けた空の呼吸と、自分を受け止めてくれた確かなぬくもりを覚えていた。それだけで充分だったから……


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