| Without Wings 〜7〜
『スタートしてから何キロか過ぎると、必ず一度すごく苦しい時間があるんだよ。息ができなくて、足を動かしても動かしても前に進んでる気がしない。気持ちが悪いんだ。それに何だかすごく……怖くなる。たとえトップを走っていても――まあその頃にはまわりのことを気にしてられなくなるからさ。だけど、耐える。耐えるしかない』 『耐えて耐えて耐え続けて――気がついたら、ふっと楽になってるんだ。体にのしかかってた何かが消えて。不思議なことに、息苦しさもなくなる。体が、ちゃんと前に進んでくれる。それにさ……足を動かしているのに、足が地面についている気がしなくなってくるんだ。それなのに前に進んでる。不思議だろ? 走ってるのに、体が浮いているような気がするんだ。地面から、だんだん離れていくような気がするんだ』 『そりゃあ気持ちいいさ。足が地面についてないのにぜんぜん怖くないし――そんなことはありえないのに、このままどんどん空に舞い上がっていくような気がする。そうなってみたくて、俺は走り続けるんだ。勝負なんてどうでもいい。ただ走りたい。飛び続けたいから……』 |
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明日、この時間に、あの公園へ―― ぜったいに、一人きりで来い……と。 ――勝手すぎる少年の要求に、それでも純は従った。 昨日と変わらず静かな公園。 野良なのか、雑種らしい子犬が公園の端の植木に鼻っつらをつっこんでガサガサ言わせている以外には、不思議なほど音がない。音はないが―― ……空気は、ひどく不穏だった。 「――こっちには一人で来いって言ったくせによ……」 純は片手で髪を無造作にかきあげながら、周囲に視線を送った。 「――そっちはまた、ずいぶん見物客が多いこったな」 彼女を囲んでいるのは……こんな公園に、わざわざバイクごと乗り込んできている少年たちだった。数は二十か三十か――それ以上か、中学生や高校生ぐらいの、まあいわゆる暴走族的な連中だろう。 純からある程度の距離を保ちながら円陣を組み、いまや彼女の出る道を完全にふさいでいる。 だからといって危機感を感じるでもなく、純は腕を組んで目的の人物を見つめた。 「で……《闇》に憑かれてるトモダチってのは、どこだって?」 冷めた視線で。 池上慎也は、ぼそりと呟いた。 「……逃げなかったんだ? 度胸あるね」 「何で逃げなきゃならねーんだ、この程度の連中に囲まれてるくらいで」 あごをそらして挑発的に言ってやると、公園の中が殺気立った。 慎也は表情を崩さなかったが、代わりにバイクに乗った連中のリーダー格らしい男が、慎也の隣で口を開いた。 「強がンなよ男女。これだけの数のバイクを相手にできンのか? バイクは痛ェぞお」 くっくっと茶化すように笑うその男のバイクの前面は、明らかに物騒な金属片が取り付けられていた。彼だけではない、他の連中のほとんどがそうだ。バイクを武器代わりに使うつもりらしい。 だが純としては、はったりで言っているつもりはなかった。 「バカかお前ら? こんな限られた空間にバイクなんざ乗り入れてきやがったら邪魔なだけだろーが。まとめてかかってくるなら味方同士でケガするだけ。まとめてかかってこねーなら数を揃えた意味がねぇな」 バイク男の顔が硬直する。純のセリフの正当性が分からないほどバカではないらしい。 それから苦々しい顔をして、「いくらでも吠えやがれ」と吐き捨てながらタバコを取り出した。 ライターが火をともす。その瞬間に、 「火をつけるな!」 慎也の怒声が飛んだ。 「おおっと。悪ィ悪ィ」 悪びれる様子もなく男のほうはタバコに火をつけるだけつけてライターをしまう。のんきに煙を吐き出す男を、慎也が尋常ではない怒りの目でにらみつけていた。いや――その瞳に、わずかに怯えの色が見える。 (……火を怖がってんのか……?) 純はいぶかった。だが、慎也は口惜しそうな顔で男から目をそらし、純に向き直った。 「言ったろ。あんたの力を試すって」 「……こいつらが相手じゃ、お前の知りたいことは分からないと思うけどな」 「………」 「おい、早くやらせろよ」 タバコを脇に捨て、バイク男が慎也に言う。 慎也は、ちょうど自分の目の前に落ちたタバコを乱暴に踏みつけた。火を完全に消し、それからようやく男に答える。そっけなく。 「ちゃんと、約束は守ってよ」 「おうよ。あの女の指輪を奪えばいいんだろうが?」 (………!) 純は表情を険しくした。ようやくこの状況の合点がいった―― 詳しくは知らないが、慎也は――その兄とともに――暴走族に関わっていた時期があるらしい。そして純は、このあたりでは ようは慎也は、純を狙う連中に、その場のお膳立てをしたのだ。 ……純の指輪と引き換えに。 慎也が、バイクの輪から離れた。エンジン音が一斉に空間を埋めた。少年たちの喚声が混じる。物騒な金属やらなんやらを取り付けられた乗り物に命が吹き込まれた。それがたった一人の人間を狙って。 純は軽く舌打ちした。そして、向かってくる者たちの動きに合わせて身構え―― さすがに軽くいなす、という芸当はできなかった。何しろ純には得物がない。もともと素手一本でこういう連中の中を渡ってきたのだが、相手がバイクでは分が悪い。 だが、必要なのは、乗っている人間を落とすこと。 そして人間自身の強さなどたかが知れている。 つっこんでくるバイクをかわし、乗り手を地面に引きずり落とす。乗り手を失ったバイクは意味のない場所を走り、それが他の少年たちの動きを乱す。難なく敵の戦力を削っていく純の動きは、まさに戦い慣れた者のそれだった。 慎也は、少し離れたところで乱闘を眺めていた。目を細め、無表情に。 ――バイクの少年たちの数が次々と減っていくことに、心動かされる様子もなかった。 彼の足元にはいつの間にやら、公園の端の植木に顔をつっこんでいたあの子犬がやってきて、くんくんと鼻を寄せていた。慎也はそれに目をやることもなかったが。 決着には十数分の時間が要った。 「くそっ……どうしてくれんだ、これ」 服が破れたことに気づいて、純は毒づいた。 わずかに乱れた呼吸もすぐに戻った。まわりの様子を確かめる――バイクはどれもプスプスと奇妙な音を立てて、がらくたのように地面に倒れている。少年たちはうめき声をあげていた。 バカなやつらだ、と純は思った。もし少数でかかってきてなおかつ肉弾戦だったならば、相手に痛みを与えず当て身をくらわせることぐらい、純には造作ないことだったのに。 数と武器を誇ったために、自らも痛みを負うはめになった…… 息を吐いて、それから顔を上げる。 そこに慎也がいた。彼の望みは叶わなかったはずなのに、その表情には相変わらず動きがなかった。地面に倒れている少年たちには目もくれずに。 そのことを、純は苦々しく思った。 「お前……まさか、この結果が分かっていやがったのか?」 「さあね」 別にどうでもいいんだよ、と少年は呟いた。 「――あんたから、指輪を奪えさえすれば」 「それが今失敗したんだろうが? こいつらが私に通用しないってのに、お前一人でどうするつもりだ」 左手を拳に固める。薬指にはまった――黒水晶の指輪。 純のその手の動きに気づいたのかどうか、慎也の視線がその拳にいったようだった。 「《地》属性……」 慎也はぽつりと呟いた。 「《地》の力の源は、“慈愛”なんだってね」 「……あ?」 「大地のように、広く、すべてを受け止める心――」 静かに言葉を紡いでいた、その慎也の片足が、 おもむろに動いた。 ギャンッ! と子犬の悲鳴があがった。 純は目を見張った。慎也の片足が、彼にまとわりついていた子犬を無造作に踏みつけていた。 「お前っ……!」 声を荒らげる。少年の足の下で、くうんくうんと子犬が苦しげな息を吐く。まだ生まれて一年も経っていないように見える、小さな犬だ。強く踏まれればただでは済まない―― 「……あんた、こんな犬でも助けたいと思う?」 慎也の囁き。純は少年を殴りたい衝動にかられた。だが体が動かない。慎也の足は、子犬を捕らえたままだから―― 「普通の人間なら、少しはかわいそうって思うんだろうね。あんたにはそれを行動で示してもらうよ」 「……正気か、お前?」 純は吐き捨てた。 指輪を渡せ―― 慎也の言いたいことが分かるだけに、なおさらいらいらが募った。 「その指輪がないと、あんたはもう《闇》とは戦えないよね。たぶん遠伸先輩たちの仲間からもはずれるんじゃない? 元から友達ってわけでもなさそうだし。それでも、その指輪を手放せるの?」 この犬のためだけに―― 「………」 指輪を、失うこと。 それは純にとって、考えてもみないことだった。 皮肉な話だ。この指輪をありがたく思ったことなど、ただの一度もなかったのに―― (……指輪をもたなくなったら、どうなる?) 純は初めて考えた。指輪を失えば力を失う。《闇》と戦う力を。それ自体は、どうということでもない。そもそも望んでこの仕事をしているわけではないのだから。 だが……遠伸たちは? 《闇》と戦う仲間としてつながった彼女たちは…… 「―――」 音がない空間。うめき声も途絶えていた。自分が倒した連中が完全に気絶したのか――それとも、今の自分には聞こえないだけなのか。 聞こえない。 ただ一つだけ、耳に届いていたのは……子犬のか細い呼吸だけ。 ――純の唇の端がかすかにあがった。 彼女は自分の指から、指輪を抜き放った。 深い色に輝く水晶を決して見ないように握りしめ、 それから放り投げる。 ――慎也のほうへと。 「……やるさ、そんなもん」 慎也は空中で、それを受け止めた。 足が、子犬から離れる。――犬は、すぐには立ち上がれなかったようだが、まだ息があることに、純は心底ほっとした。 慎也は手の内のそれを見つめていた。独り言のように、抑揚なく呟く。 「……綺麗な宝石だね」 「………」 「“最強”なだけはある――こういうのは、ふさわしい人間が持つべきなんだ」 「……まさか、それがお前だとでも?」 純は呟くように訊いた。 慎也は指輪から目を上げ、半眼になった。 「――少なくとも、あんたじゃないよ。あの問いにああ答えたあんたじゃ――」 ――ひとは、翼なしで飛べると思う……? 「――だからおれは、あんたからこれを奪いたかったんだよ」 言った刹那の、少年の瞳。 それが、無邪気に笑っていた。 まるで夢見る少年のように。何かを達成させるために力を尽くしている人間のように。 ――奪った指輪を、握りしめる手。 純には、言うべき言葉が見つからなかった。 慎也の言葉に反論するには……彼女自身に、迷いがありすぎたから。 慎也はもうそれ以上何も言わなかった。 自分が集めてきた暴走族たちには目もくれず、くるりときびすを返し、静かに公園を立ち去っていく…… たった一人がいなくなっただけで、その場の熱が一気にひいていく。 背に、汗が流れるのを認めて、純は笑った。 ひとしきり笑って……それがふと、止まる。くしゃりと、手で自分の前髪を乱し。 「………」 空は真っ赤な夕焼けだった。炎のような色。 その力強さが苦しくて、純は目を閉じた。 ――泣きたい気分だった。 どうしてなのかは、分からないままだったが。 |
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『だからさ、俺は思うんだよ。鳥みたいな翼なんかなくても飛ぶ方法はあるんだって。――あ、笑ったな? いいさ分かってくれなくったって。これは俺にしか分からない、最高にぜいたくな心地なんだ。俺は走るよ。まだまだ、ずっと走るよ。そして飛ぶんだ――ちゃんと見てろよ、なあ慎也?――』
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