| Without Wings 〜8〜
書類のたばをまとめて、その端を机の面でとんとんと叩いて揃える。 「よし、終了――っと!」 とっても爽快な気分で声を上げ、未来はその書類のたばをバサッと机の上に放り出した。おかげで書類はまた広がり、端を揃えた意味がまったくなくなったが、そんなことは構うこともない。 「あー肩こった! もぉ、事務処理って苦手なんだから――」 ぐるぐると肩を回し調子を確かめる。今日の授業が終わって以来、彼女は帰宅せずに二時間、この生徒会議室の机でひとり書類と格闘していたのだ。 疲れたよーと誰に遠慮するでもなくぼやきなががら――部屋にはひとりしかいないのだから当たり前だが――椅子に座ったまま大きく伸びをする。 こんな単純な動作を爽快に感じるのは、悪い気分ではないけれど。 ぐぐっと限界ぎりぎりまで背をそらしてみる。少々危なっかしい姿勢のままふと考えた。今日の授業のこと、明日の授業のこと。生徒会はしばらく大きな行事はない、代わりに生徒会仲間が出場する大きな陸上競技大会が近い。 陸上。そう言えば池上兄弟はどうしただろう。慎也と再会したのはつい昨日だ―― 背をそらした姿勢のままふと横を見ると、窓の外を赤い夕焼けが染めていた。 「うわあ、きれー……!」 姿勢を楽にし、机に頬杖をついて未来はその赤い色に見入った。 彼女は夕焼けが好きだった。一日で一番気を抜くことができる時間帯に見えるところも好きだったし、明日の天気が晴れとなる予兆であるところも好きだった。なにより―― 時に静かに、時に力強く、そして時に燃えるように空を染めるその赤い色が。 未来は自分の左手を空中にかざした。そして何となく、薬指にはまっていた指輪をはずし、指輪そのものを視界にかざしてみた。 夕焼けにも負けない赤い色。深紅のルビー。 《火》属性の証…… 「――なんだ、まだいたのか遠伸?」 ふと会議室のドアから声がして、未来は指輪を下ろし振り向いた。 葛西教師が、戸口に腕をもたせかけてのんきに声をかけてくる。未来の前にある書類の山を見て、未来がこの時間まで学校にいた理由を察したらしい。 「ははあだいっ嫌いな事務処理か。井波はどうしたんだ?」 「純、今日は一日上の空だったから。仕事どころじゃなかったみたい」 未来は口をとがらせる。そもそも事務処理関連はすべて、会計である純の仕事なのだ。ときどき、会計の仕事とはまったく関係ない事務も任せているのではという指摘もひそかにあるが、そんな細かいことを気にしてはいけない。ようは得意である者のところに仕事がいくのである。適材適所とはまさにこのこと。 それが日ごろから未来が主張していることだが、おかげでこうやって純が仕事をしなかったときにしわよせがくる。もちろんこんなことで反省するような未来ではなく、「仕事はちゃんとやるべきよー純―」などとぶつぶつ言いながら苦手な書類整理に精を出していたのだが。 「井波が上の空ねえ……」 腕組みをして戸口にもたれ、葛西教師はほうけたような声で呟く。未来は再び書類をまとめなおしながら話を続けた。 「朝から様子はおかしかったけど、授業終わったらさっさと帰っちゃって」 「帰るのが早いのはいつものことだと思うけどなあ。体調でも悪かったのか?」 「ううん。問い詰めたら『約束がある』って」 「……果たし状じゃないのか? またいつもの」 「ありえるけどー、ほらこれ」 と、隣の机の中からノートを一冊取り出して、戸口の葛西に見せる。 「……純のノート。忘れてったのよ。おかしいでしょう?」 「なるほどな。あの井波が忘れ物か」 「そうそうしかもこれ明日提出するノートのはずなのよね」 呆れたような声音で言いながら、未来は純のノートをぺらぺらと――勝手に――めくった。中身は純のクラスで明日提出になっているはずの数学である。たぶん昼休みにこの会議室でやって、そのまま置き忘れていったのだろう。しかも珍しいことに、どうやら宿題の部分をやり終わっていない。やりかけの数式があるのだ。 ノートを閉じ、ぽふっとその表紙を叩いてみる。 「まーったくもう。仕方ないから届けてやるとするか!」 「送ろうか?」 「ん。先生もまあいないよりマシだもんね」 「……本人の前で言うか……」 「冗談に決まってるじゃないセンセ。うん冗談。たぶん冗談。冗談っぽい感じ」 「君にからかわれると、一人前として認められたって気がするんだな」 「いやだ先生、そんなに誉めないでv」 「君はかわいいのに『いやいやv』のしぐさはすこぶる似合わないんだよなあ」 不毛なやりとりの合間に未来は帰宅準備を進めていた。はずしていた指輪を再び指に戻す―― と、それに気づいた葛西が不毛なやりとりを中断させ、首をかしげた。 「遠伸。そんなに無防備に指輪をはずしていていいのか?」 未来は指輪をはめる途中でとめた。葛西を振り返り、 「別にー。センセ、はめてみる?」 「ぼくには小さいだろ。いやそういう問題じゃなくてだな」 「大丈夫、そんなに簡単に奪われやしないから」 未来はくすくすと笑って、今度はしっかりと指輪をはめなおした。 葛西が疲れたようにため息をつき、 「気をつけたほうがいいぞ。《火》は厄介だからなあ――」 「分かってるってば。私が一番ね」 軽い調子で言いながら、最後に書類をファイルにはさんで鞄にしまい、純のノートは手に持ったまま机から立ち上がる。 五属性中、もっとも“危険”とされているのが《火》属性である。《闇》を浄化する力がもっとも小さい代わりに攻撃性は極めて高く、なにより―― もっとも、人間の心に反応しやすいのだ。 かつての《火》の者が、少々の怒りがもとで、自らが起こした炎に自滅したという事実もある。指輪自身に“持ち主”と認められた人間以外の心にさえ、時に反応するという。 反対に、少々のことではその力を発現させられないのが《地》属性である。それゆえ、《地》と《火》はしばしば反属性と呼ばれていた。 未来は改めて、指に飾った紅い宝石を眺めた。 ――そう言えば、この宝石が私には“似合わない”と言った子がいたな…… 思い出して、ふふと微笑する。 ――誰にも分からないだろう。自分がこの赤い宝石の持ち主であることに、満足しているということなど。 「じゃ、先生。行こう」 葛西に向き直る。うなずき、教師は戸口から体を離して、職員室に寄るよ――と、廊下に振り向きかけた。 |
|
その動きが、何かに驚いたように止まった。 「……井波?」 その名前に未来も驚き、廊下を見ようと一歩を踏み出す。だが、そうするまでもなく相手のほうが、葛西とすれ違うように教室に入ってきた。 うつむいたまま。 未来はさらに驚いた。――純の着ている服。それが、汚れ放題になっていたから。 「純。どうしたの?」 またケンカしたの――問いかけると、純はようやく顔を上げた。未来を見、ひどく苦々しい顔をして。 「……なんでお前がいるんだ」 「純がやってくれなかったから事務してたんじゃないのよ。純こそ何でこんな時間に――」 言いかけ、思い出す。自分が手にしている純のノート…… 「ああ、これを取りにきたんだ」 合点がいって、未来は笑った。その通りであるらしい、純はつかつかと未来のところにやってきて、その手からノートを乱暴に奪った。 その態度に未来は眉をしかめた。 「何なのよ。何でそんなに不機嫌なの?」 「……うるせえよ」 「まさかケンカに負けたってわけでもないでしょ――ちょっと、純!」 未来を無視し、さっさと身を翻そうとする純を、未来は引きとめようとした。彼女の左腕をとっさにつかんで―― ふと、違和感に気づく。拳にかためられた純の左手。 その指に、あるべきものが……ない。 思わず未来はその拳を引き寄た。顔に近づけてみる。ない。黒水晶の指輪が―― 「純――あんた」 「放せよ」 純は未来をにらんできた。ふりほどこうとはしない。つかまれた左手――どんな男よりも強いのではないかというほどの手に、今は力がなかった。 「………」 未来は手を放した。解放された手首をさする純を見つめる。 「……指輪は?」 問う。 純は、ただ首をふった。 「答えなさいよ!」 語気を強める。――視線が合わない。避けられている―― 未来を見ようとしない相手の視線が、しばらく床の上を泳いだ。それから――すっと目が閉じ、静かに苦笑する。 「……あれは、私が持っているべきもんじゃないってよ」 「何を――」 「私だって、好きで持っていたわけじゃねえ。解放されてほっとしたさ」 ようやく―― 純の瞳が、未来を見た。その唇が、冷めた言葉を紡ぐ。 「……私は偶然あの指輪をはめるようになった。それも、ただ必要に迫られて仕方なく指輪に選ばれたんだ。覚えているだろう? 私は、お前らとは違う……」 「――本気で言ってるの?」 見つめる純の瞳。 弱々しいようでいて――その言葉通り、どこかほっとしているようにも見える。 純は無言だった。 ただ、拳にかためた左手に、かすかに力がこもったのを……未来は見た。 はりつめた空気が二人の体を縛りつける。 窓からは赤い陽光がさしこみ、動かない二人の影を伸ばしていた。 「――そう」 未来は視線をはずした。 もうそれ以上は言わず、純の横を通りすぎて教室の戸口へ向かう。 そのそっけなさが、逆に不安だったらしい、 「遠伸……?」 背後から、純の動揺の隠せない声が聞こえた。 未来は振り向かなかった。戸口に手をかけ、 「それがあなたの考えなら仕方ないわね。でも、私も私の考える通りにするから」 「何をしようって――」 「指輪。取り戻しにいくから」 「―――」 純が息を呑む気配があった。 無言になる彼女に代わって、葛西教師が尋ねてくる。 「取戻しにって……君、知っているのか?」 未来は廊下を見つめていた視線を上げた。 廊下をはさんだ向こう側の窓。夕焼けの見えない方角。 それだけに暗い色の空に、重なって思い浮かんだのは、つい昨日再会した少年の姿。自分には無邪気な顔を見せるその顔…… 今、自分は冷たい表情をしている――と、未来は思った。 「……予想はつくわよ」 昨日の今日なのだから―― 言葉はそれきりに、未来は教室を出た。 「遠伸――!」 背後から呼ぶ声にも、足は止まらなかった。 廊下に自分の足音が響く。急いている、そのことは自覚していた。 指輪を早く取り戻したいがためではなく―― ……ただひとりの少年に、言いたいことがある。伝えたい――そう、ただそれだけのために。 意識は左手にのみそそがれていた。 かつて、『似合わない』と言われた――深紅の宝石の繊細な重みに。 |