Without Wings
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〜9〜


 あの人の微笑みはやさしかった。
 そんな微笑みとともにあの人が紡いだ言葉が、どれほど大きなものだったか。
『本当にひとが翼なしで飛べるかどうか、そんなことは問題じゃないのよ』
 自分たち兄弟がとらわれた言葉。“翼のないまま、空は飛べる”――その言葉を、うなずくでもなく拒むでもなく。
『ただ、それはとても素敵なことだから――そういうふうに思えるあなたのお兄さんの心が、私には一番大切に思えるの』
 ――そしてあの人は、兄を救ってくれた。
 まっすぐで暖かいその心で、救ってくれた。
 そんなことができる人間が、この世にいったいどれほどいるというのか――
 だから、自分は思うのだ。
 あの人が、“もっとも強い”と言ったその力の源。それは、あの人自身の手にあるべきものだ――と。

*******

 未来がその校門の前に立ったとき、空はにわかに増え始めた雲に覆われ、赤い太陽は輝きを遮られていた。
 校門は閉じている。こんな時間では当たり前だ。
 未来は、門の脇に掲げられている校名に目をやった。
 公立つばさ・・・中学校。
 無名の学校である。ただ、ほんの一年前までは一部の人間に注目されていた。
 ……無名の陸上部に、優れた長距離走者が現れたと、評判になって。
 だが彼は二年生の秋ごろに、ある出来事が元で走ることができなくなった。周囲の落胆は大きかった。何より本人の傷ついた心は歯止めがきかず、彼は次々に問題を起こした。
 荒れた心をつけいられ、《闇》に取り憑かれた彼を、未来たちが救ったのはこの学校でのこと。
 その後、彼は昂成校に転校したのだが……
「………」
 未来はひとつため息をついた。
「疲れてるの? 先輩」
 声がした。
 ゆっくり顔を上げる。
 ――鉄柵にも見える門の向こうに、慎也の嬉しそうな顔があった。
 普通の少年だ。狂っている様子などみじんにもない……自分に向けられている笑みが、未来には重かった。
 自分が……彼の心を縛っている。
 明るすぎる彼の笑顔がそれを物語っていた。
「俺はここだって、やっぱり分かってくれたんだ。今日は来ないかなと思ってたんだけど――あの井波って人、先輩に伝えるのが早かったね」
「……純は、何も言わなかったわ」
 つぶやくように言うと、慎也は驚いたような顔をした。
「じゃあ何で分かったの?」
「………」
「どっちにしろさすがだね。少し不安だったんだけどさ」
 満足そうに慎也は言う。それから門を開けた。おそらく彼自身は、門をよじのぼったのだろう。兄とはまたタイプが違うが、彼自身運動神経はかなりよかった。
 重く鈍い音をたてて、門が開く。
「さあ、先輩」
 未来を促すように、彼は腕を校舎のほうへと向けた。
 少年の顔の向こうで、赤い太陽が雲の合間から顔をのぞかせようとしていた。
 沈む直前の――まるで自己主張しているかのようなその紅い色が、慎也の顔を影にして隠す。
 その瞬間の顔は見えないまま、慎也が言葉を紡いだ。
「行こう。先輩が兄貴を助けてくれたあの教室へ」
 もう暗いはずの空が、なぜまぶしく見えたのか――
 分からないまま、未来は校門の向こうへ一歩足を踏み出した。


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