旅の合間のある日常―13 -
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(完全に取り込まれやがった――)
 オレは一歩踏み込む。女は一歩退く。退きながら両手を上へと掲げ、同時に女のまわりに薄紫の霧が大量発生した。
「う、うそだ嘘だ――」
 ウルグはへたりこんだまま、だんだんオレたちから離れるように退いて、やがてどんと壁へ背中を打ち付けて止まった。
「だって、この霧、この霧は幻魔の――」
 ――幻魔と呼ばれるモノが操る霧。
 いや、あるいは幻魔そのものかもしれない。
 吸い込んだ者を、あるいは包み込んだ者を、惑わしの中へいざなう霧。
「――どうしてシャラが!」
 ウルグは悲鳴のように声をしぼりだす。
「言っただろうが。あの小娘はあれでも幻魔狩りなんだよ」
 オレはシャラの生み出す霧の濃度と動きを慎重に測りながら、背後のガキに言ってやった。
「……ものすごく喰い意地のはった、な」
 霧の濃度。再び危険値に達したとオレの経験が判断して、反射的に呼吸が止まった。幻魔狩りにとっちゃあ長く息を止めているなんてぇことは、普通の狩人が弓矢を射るのと同じくらい当たり前にできることだ。
 そしてもうひとつ。
 オレは女に肉薄しながら――目を閉じた。
 視界が闇へと変わる。その中に残像のように、美しすぎる銀髪の霧の女が浮かんでいる。その気配だけを追う。
 霧を吸うな、それは麻薬。
 霧の中でものを見るな、それは幻。
 すなわち、幻魔。
 ぱしっぱしっと奇妙な音が耳にかすかに届くたび、体のどこかに傷が走るのを感じる。
 血が流れていく。オレの体あちこちから。
 しかしそれを感じられる以上、自分は霧の中――つまり女の間近にいるのは間違いなかった。この霧は喰った幻魔から受けついた力だ。この霧の中にいるものでなければ、今のシャラは傷つけることができない。
 それこそが幻魔の力。霧の中に包み込んだ相手に見せた幻を、あるいは霧の中にいる自分自身が思い描いた情景を、現実へと変えること。
 今。シャラは自分が生み出す霧の中で、オレがその肌を切り裂かれる様を思い描き続けているのだろう。そして、そうだからこそ――女の攻撃は、どんどんと弱いものへと変わっていく。
 目を閉じたまま気配だけを追った。そうそううまく行くことではない。それでも。
「体はでかくなっても、」
 女が避けようと踏み出したまさにその方向へ、オレは足を突き出してその足をすくった。
「動きはまんまお前なんだよ、シャラ!」
 女の集中力が乱れる。霧が散った。オレは瞼を上げる。まっさきに倒れようとするシャラが目に映り、とっさに抱きとめた。さらりと、シャラの銀髪がオレの頬に触れた。
 その瞬間、シャラの指先に凶器が光った。
 突如長く伸びた鋭い爪。
 まるで獣のように、銀髪の女は爪を下から放つ。さっき銀の髪が触れたまさにその場所に、今度は三筋ほどの赤く鋭い線が走った。
(よほど強い幻魔だったか)
 オレが舌打ちする。女が猛然とオレに襲いかかる。オレは抵抗しなかった。まともに女の体重を受け、押し倒され、そして次の瞬間には振りかざされた光る爪が見えた。 
 整った桃色の唇から、犬歯がのぞいた。虚ろだった紫の瞳が、ぎらつく獣の狂気を帯びる。
 その瞳の動き、そして腕の動き、指先の動き、すべてからはじきだされる答え。
(狙いは――心臓)
 オレはわずかに身じろぎする。
 そして。
 鋭い凶器が振り下ろされて――

 脳髄に激しい何かが走った。

 何とも言えない沈黙の数瞬があった。
 銀の髪と紫の瞳を持つ女が、呆然とオレを見下ろしていた。その白い腕を――オレの脇腹に深く突き刺さった爪、その手首をオレはわし掴んでいて。
 急所は避けたとは言え、オレがまともに攻撃を食らったことが信じられなかったらしい、しばらく驚きの表情を浮かべた後――女は慌てたように、手を引き抜こうとした。
だが、単純な力比べならば当然オレに分があるのだ。
 オレは手首を放さなかった。
 別に刺さったものを急に抜くと出血がひどくなるとか、そんな理由じゃない。むしろぐいとシャラの爪を、自分の腹に食い込ませるように押さえつけて。
 爪の傍らから、血が、にじむ。
 さっきのように霧幻の中、遠隔的に行っていた攻撃とは違う。確かな感触が……女に伝わっている。
 造りもののように整った美しい女の顔が、何かを感じ取ってだんだんと青ざめていく。
「分かるか、この大バカ」
 オレは下から女の顔をまっすぐ見上げて、唇の端をつりあげた。
「分かるか? てめぇが今傷つけてるのが誰なのか」
「―――」
 目の前で、艶やかな唇が震える。
 細い手首を掴んだまま、その裸体の左胸の辺り―心臓の上にもう片方の掌をあてる。
 鼓動が異常に早かった。それを感じ取りながら、
 オレは――声を張り上げた。

「戻ってこい!! 『IgnisイグニスLibertasリーベルタースShareliraシャレリラ』!!」

 鼓動が――
 女の鼓動が――
 どくんと、ひときわ大きく跳ねて――

 どっ、とオレが掌を当てていた部分から貫通するように、女の背中から何かが弾き出された。
 虚ろだった紫の瞳に光がよぎった。女の体から力が脱けた。波打つ銀色の長い髪がさらりと流れて女の顔を隠す。髪の先が俺の頬に、さわと触れた。
 やがて小刻みにその白い肌が震え出した。
「……て……手を……はなし……」
 消え入るようなか細い声が訴える。
 オレはゆっくりと、手首を引いて傷口から抜いた。
 ぽつり、ぽつりとオレの顔に服に零れ落ちたものがあった。
 シャラエリラは泣いていた。

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