「ヴェルハーヴ! お前の主人はおれだ!」
いつの間にか、部屋の隅に縮こまっていたはずのウルグが立ち上がっていた。
その視線が暗い輝きを帯びて……獣を見つめている。
――まさか、あの幻魔の名前か……?
「おれの言うことを聞け! ヴェルハーヴ……!」
ウルグが一歩踏み出しかける。
「よせ! 近づくな……!」
しかし遅い。獣の幻魔はウルグを注視している。
せっかくあのガキから注意をそらしていたのに台無しだ。オレは歯噛みして、もう一度獣と相対するために剣を振りかざした。
しかし、
――オレの腕が空中でぴたりと止まる。
猛然と駆けてきた子供が、オレと幻魔の間に割って入った。その子供の、眼前で剣は止まった。
ウルグは獣に向かい、堂々と命令した。
「おれがお前の主人だ。お前はおれを守る。おれはお前を守る。そうだな、ヴェルハーヴ」
「なに勝手に人の名前つけてやがんだ……」
苦々しくつぶやくと、ウルグはこちらを振り向いて、壮絶な顔で笑った。
「こいつは血に飢えた獣なんだ。だからヴェルハーヴってつけた。ぴったりだろ?」
「………」
「何を考えておる!」
久しぶりの甲高い声が復活する。
廊下から、すっかり子供姿に戻った体にシーツをまとったシャラが、ウルグに向かって怒鳴りつけた。
「ランスフォードの三男はこの世で一番強い幻魔狩りで、この世で一番いい男なのだぞ! よりによって幻魔にその名をつけるとは、たわけがっ!」
――聞いてて恥ずかしい、とか言ってる場合でもねえな。
ウルグはせせら笑うように、シャラを見返した。
「バカはそっちだよ、シャラ。ヴェルハーヴになに下らない幻想抱いてんの? ほんとにあんな男が噂の最強の幻魔狩りだとでも思ってんの?」
その言い方に、オレはひっかかりを覚える。
(そういやこいつ……さっきのオレとシャラの会話をちゃんと聞いてたか?)
オレがその三男坊当人だと、知ってて言ってやがるのか?
そのわりにはまるで、このガキの語り方は――誰かを思い出しているかのような、そんな追憶の響き。
(誰かと間違えてんのか?)
――考えている暇はなかった。
次の瞬間にはオレの経験が判断し、ウルグを抱き込んで横へ避けた。
一瞬前にガキがいたその場所に、幻の獣はその鋭い爪を振り下ろしていた。
オレは舌打ちする。暴れようとするウルグに囁いた。
「いいか、よく聞け。幻魔が本来人間の言うことなんざ聞くわきゃねえんだよ。人をより多く喰った幻魔ほど知能がある……あいつは、お前を利用してたんだ。お前のそばにいりゃ、お前が人間をつれてくるってな!」
少年の視線が凍りつく。
唇が震えた。
「そんな――そんなはずがないっ!」
言っている間にも獣はこちらに向かって床を蹴った。ウルグを抱えている分オレの動きが鈍っていることを、ちゃんと分かってやがる。
何とか振り切りながら、ちらりと相棒たる小娘を見やる。
シャラが、その豊かな長い銀髪を数本抜いた。
「シャラ!」
オレはウルグを、シャラに向かって突き飛ばした。
待ち受けていたようにシャラは、自らの髪を空中にすべらせ―少年の体にからませる。
刹那、銀の髪は銀色の壁となった。
―防護結界だ。
輝く銀色に包まれたそのとき、ウルグは叫んだ。
「嘘だ……! だってあのときの幻魔は、ヴェルハーヴの言うことを聞いていた……!」
――あのとき?
ふいに思い出した。カウンタ嬢の言葉。
『ウルグは、両親を幻魔に』
「……そーいうことか……」
有名人はつらいもんだな。オレは自嘲気味に思う。
名前だけが知られる、強いと評判の幻魔狩り。その名を名乗りさえすれば、そいつを信用し頼った人間は多かったに違いない。
だが……ウルグが出会ったという、剣を扱う『ヴェルハーヴ・ランスフォード』は、幻魔の“飼い主”だった。
そいつと幻魔の関係がどういうものだったのかは知らない。ウルグのように、幻魔に利用されていたのかもしれないし、あるいは本当に飼い主の言うことを聞いていたのかもしれないが。
ウルグは『ヴェルハーヴ』に騙されて、両親を――
「ったくよ、どいつもこいつも人の名前を勝手に……」
「まったくだの。本物も知らずに」
オレよりよほど憤然としながら、シャラがその銀髪の一本をオレの体にふわりと巻きつける。
銀色の発光。薄く張られた防護結界。
シャラに向かって軽く手をあげてみせ、それからオレは改めて獣に向かう。
ぐるるる……
凶悪なうなり声をあげるその獣の口元から、大量のよだれが落ちている。
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