幻魔。
説明するまでもない、それは“幻”だ。
幻が幻のままであったなら、たいした問題ではなかった。幻は幻であって、現実ではない。幻には何の力もない、はずだった。
だが。
世の中には、幻にとらわれる人間が多すぎた。
人の心とともに変化してゆくそれ。人の心は決して止まらない。それに伴う幻もまた。
やがて幻魔と呼ばれるようになったそれが及ぼす被害は増加する一方だった。ただ……すべての責は、人間へと戻ってゆく。
そして――
*****
ぎしり、ぎしりと床がきしむ。
……一歩一歩ゆっくり歩くだけでこれだ。いくら木造ったって、このきしみ加減はヤバいだろ。次の客が来る前に倒壊しねえといいけどなっつーかそれ以前に客ほんとに来るのかよ。そんなことを思いながら、オレはのんきに無口なウエイトレス――現在は案内嬢――の背を追っていた。
宿屋は一階が食堂で、泊まるための部屋は二階より上にある。……まあ、このあたりの平均的な宿屋だろう。
そして今、オレが案内されようとしている部屋は二階にあるらしい。そりゃそうだ、ここには二階より上がない。つーことは当然、シャラがあのガキと行った場所も同じ階にあるわけで……
「静かだな」
オレは呟いた。
オレと目の前の後姿の女。二人分の足が床をきしませる音以外、音らしい音はまったくしない。
「……壁は、厚く造っております」
振り返りもせず、案内嬢が答えてきた。
壁は厚く。……この店の商売を考えりゃ当たり前のことか。普通の宿じゃあ、安いところだととても部屋の中でしゃべれねえような場所もあるんだが。
まあここしばらく、そんなありがたくない宿屋には縁がなかった。何でかって? あのな、壁の厚さなんぞまったく気にしてくれない人間連れて旅をしてりゃ、間違ってもそんな宿選べねえだろ。
シャラと出会う前なら、ンなこと気にしなくても良かったんだけどな。思い出してオレは少しため息をついた。
――一人旅だったんだから。
オレがことさらゆっくり歩いているせいか、案内嬢も進むのが遅い。その上どうやら一番奥のほうにある部屋を案内してくれやがるらしい、小さな宿とは言え、まだ部屋に着く様子はない。
オレは独り言のようにのんきな声を上げた。
「まったく、久しぶりだよなあ……誰にも邪魔されずにひとりっきり、のーんびり宿でごろ寝できんのは」
案内嬢がふと――その言葉に反応した。
ぎっ、と一歩踏み出しかけた女の足が止まった。変わりに低い声が返ってくる。
「……嬉しそうに聞こえます」
「ご名答」
「あなたがたは、恋人同士ではないのですか」
「本気でそう見えるのか?」
「………」
ほんの少しの無言の後――
女は再び歩き出した。
オレはやっぱりのんびりその後に続きながら、廊下の両側を眺める。
一階からの階段をのぼってすぐ、廊下は二手に分かれていた。その廊下の先がぐるりと一周してつながっている、のかどうかは知らないが、
……おそらくシャラたちのいる部屋とは、遠い方角に進まされたはずだ。そう、確信していた。
そんな廊下。意外と部屋の数は多いらしい、ぽつり、ぽつりと等間隔で並ぶドアが左手に。右手には小さな窓の連なる、宿屋自体の外側の壁。
――二手に分かれた廊下は、どうやらつながっていないらしかった。
やがてたどり着いたのは、突き当たり。
「――こちらになります」
階段の位置からすると本当に最奥の部屋らしきドアの前で、案内嬢は初めて振り返り、そのドアをすっと片手で示した。
ドアを開けてすすめようとはしない。
そんな彼女の動作に、オレはひそかに唇の端を上げる。
「どーも」
軽く礼を言って、そしてオレはドアノブに手をかけた。かちゃり。意外なことに、ボロ宿のくせに金属製の鍵の音がして、オレが扉を引くままにゆっくりと部屋が開く――
そして開けかけた仕種のまま、動きを止めた。
背後に立った女の気配に向かって、
「……できればさあ、本当にのんびりごろ寝させてほしいんだ、オレとしては」
――……
「なあ、久しぶりのオキャクサマの切なるお願いは、きいてもらえないもんか?」
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