島に足を置いた瞬間だ。その瞬間。
靴底、つまり大地に、吸い込まれそうな感覚に陥った。
――お前の来るべき場所は、ここだ
と、誰かが教えてくれたかのように。
そして次の瞬間には足は解放された――かのように思えたが、今度は……
*****
ジオの船は、無事目的地へ到着した。
桟橋があったことに一瞬驚いたシグリィだったが、すぐに「ジオがそれだけしょっちゅう来ているのだ」と納得した。
船を係船柱で係留させ、シグリィたちは手早く船から降りる。
カミルは、さっと辺りを見渡した。
「人肉種の気配は――ない、ように思います」
それを一番最後に船から降りてきたジオが耳にし、
「ばっかやろぉ、島の連中はもっと奥まったとこに住んでんだぁ」
と息巻いた。
「とりあえずですよ、ジオさん。……シグリィ様?」
呆然とつったっていたシグリィは、カミルに呼ばれて、
「――あ、ああ。そうだな……うん」
慌てて相槌を打った。
カミルは怪訝そうな顔をしたが、それ以上追求しない。
「さあ、行くぜ行くぜぇ!」
ジオがどかどかと歩き出そうとしたそのとき、
「うわあ……」
まるで風のように軽やかに、女の明るい声が弾む。
「きれいな島……!」
その声を聞いて、ようやく旅の男たちははっと目の前を見直した。
ただの島。
そう思うのは早計だった。
目の前に広がっていたのは、広大な草原――
広々と広がる、植物の世界。
普通の草原よりも、丈の長い草。生えている植物に目をやると、それは背が高いタイプの薬草。
福音の島。
別名、薬草島。
グラデーションのかかった草原、ところどころに小さな花が咲き、彩りを添えている。
草色の空に、さまざまな色の星が散りばめられたような陽気な輝きでもありながら。
爽やかな春風に触れば、さわさわと優しい囁き。
そのどれもが、
ひとつも余すところなく、
すべて、薬草。
――薬草でなくても。シグリィは思う。
たとえ薬草好きのシグリィでなくても。
この光景は美しいと思う。
春風は何度もいたずらに吹き、そのたびに草々が一方方向になびく。まるで妖精の長い髪がなびくように。
遠目には、木々も生えているようだ。
気がついてみれば踏む土はやや柔らかく、あまり人が通っていないことを思わせる。
「おめぇらあまり草踏むんじゃねえぞ」
案の定、ジオが命令した。
「俺の作った唯一の道がある。そこだけ通れぇ」
ほら、とジオは桟橋から直接続いている大地を踏む。
一直線に踏みしめられた、道があった。
一度に人一人しかとうてい通れそうにない幅だ。
だが、ジオ――と、この島の住民にしてみれば、これで充分なのだろう。
「俺はいつもなぁ、一人でここから住民のところへ行く。さあ、急いで行くぞぉ」
「はい」
カミルが返事をする。横で、セレンがまだ「きれいな場所……」と陶酔している。
シグリィだけが、
「………」
無言で、周りを何度も見回していた。
「おい坊ちゃん、行くぜ!」
呼ばれてようやく、シグリィは振り向き、「はい」と応えた。
不思議な感覚がする――
道を一列に並んで歩く。先頭に一般人を置きたくなかったのだが、ジオがずんずん行ってしまうため仕方なくシグリィたちは後ろをついていった。
ジオ、シグリィ、セレン、カミルの順に。
シグリィはジオの足に視線を落としながら無言で歩いていく。
「シグリィ様?」
と後ろからセレンが声をかけてきた。「どうかなさったんですか? さっきからおかしいですよ」
この女は妙なところで、人の様子に聡い。人が――とても悩んでいたりすると、すぐにそれを察する。
「………」
シグリィは足を止めないよう気をつけながら、
「いや……よく分からない」
と首を振った。
「よく分からないって……」
「不思議な心地がするんだ」
ふと顔を上げて、
「足が……自然に動く、ような……まるで、誰かに導かれているような」
「福音の、ええと、……皆さんのところへ?」
「――いや――」
足はジオの行く道をまっすぐ追っている。普通に考えて、自分もジオの行く先にいるはずの、島の住人たちへと導かれているはずなのだが。
――不思議な、
感覚が、
「訴えて――誰か、一人の元へ――」
そしてまばたくたびに、思い出すのは、海上で見た青い流れ星。
「あの青い光が」
「気になるんですね?」
「……そうだな、気になる」
空を見上げる。
あの青い光は――この島に向かって落ちた、はずだった。
だから。
――私がここに来るのは、必然だった?
答える声はない。
ただ、春風だけが強く吹いて、彼の黒髪を乱していった。
*****
人肉種の気配は、島にはまるでなかった。
「結界の気配もないというのに……」
シグリィは辺りを見渡して、感心の声をもらした。
「この島は、まるで本当に護られているようだ。景色の美しさといい……」
「人が住んでいる場所まではあとどれくらいですか?」
最後尾のカミルが背後に気を配りながら先頭に尋ねると、
「あと1キロってぇとこか」
「近い。……でもまだ気配しないわ」
セレンが不思議そうに言う。
シグリィはこめかみをかいた。
「……私たちが人間の気配を察知するときは、癖で《印》の気配を探るからな」
「――あ」
思い至って、セレンが押し黙る。
福音の島。
その住人は、みな――《印》をもたない。
すっかり癖になっていた自分たちの常識を、覆す。そういう島なのだ、ここは――
それでも。シグリィは連れの二人に言う。
「肝に銘じろ。……私たちが“外部から来た人間”、と敬遠されるようなことはしないように。受け入れてもらえるように努力すること」
神妙な顔で、連れの二人はうなずいた。
と、急にがはははは! とジオが大笑いした。
「お前さんらぁ、まあ、そういう意気込みでいてくれんのはありがたいけどよぉ」
まっすぐ道を進みながら、その大きな背中が言う。
「大丈夫だぁ、俺がちゃーんと説明してやる。お前さんらがいいやつらだってことをよぉ」
その言葉、海の男らしく力強く、荒波をも吹き飛ばしそうに爽快で、
シグリィは微笑んだ。
「ありがとうございます、ジオさん」
「けっ。礼を言われる筋合いはねえ」
妙なところで恥ずかしがっている。セレンが、くすくすと笑った。
「笑うんじゃねえ置いてくぞぉ!」
ジオが怒鳴った。決して振り向かないまま。却って笑えて、シグリィまでが笑ってしまった。
「お前ら揃って置いてくぞぉぉぉ!」
島をジオの怒鳴り声が渡っていく。
「あ、……ひょっとして、ジオ!?」
前方から声が聞こえてきた。
まだかなり離れた位置にいる。けれど声の通りはとてもよく。
「おー! その声はハヤナかあ!」
「ジオ! 来てくれたんだね!」
唯一の道を軽快に走る音が、だんだん近くなってきた。
若い声だ。
風に混じる呼吸に走る速度、靴音。若い気配だ。
やがて見えてきたのは、若草色の髪を襟足まで伸ばした――おそらく十六歳のシグリィとほぼ同い年に見える、少年。
着ている服は、大陸西方の村人服だ。
ハヤナ。ジオがそう呼んだ――
少年は、しかしジオのところに来る前に足を止めた。
――怯えた、表情――で。
「ジオ……後ろの人たちは?」
「おお、こいつらぁな」
ジオは今までの話をかいつまんで聞かせる。
ハヤナは怪訝そうな顔をした。
「旅人……」
「珍しいもの見たさできたわけじゃねえよこいつらは。大丈夫だ」
そうだろ? とジオはシグリィたちに同意を求める。
シグリィは丁寧にうなずいた。
「そうです。長年旅をしている私たちにとって、あなたたちのことは、知らなくてはいけない重要なことだと思っています」
「もし困っているなら、助ける方法とか探したいし」
セレンが唇に手を当てて、うーんとうなった。ハヤナをじっと見つめて。
そして、笑顔になった。
「本当に《印》の気配がしないわ。でも嬉しい、あなたとてもいい表情をしてる。かわいい女の子!」
ハヤナが真っ赤になった。
「……え? 女の子?」
シグリィが目をぱちくりさせた。少年だと思ったのだが。
ハヤナの、琥珀色の瞳は、セレンの言う通りとても澄んでいた。
スカートを履いていないのは個人の自由というやつだろう。セレンもたまにスカート以外のものを履くことだし。
とにかくハヤナは――
琥珀色の瞳をあっちへこっちへ移動させた後(おそらく照れていた)、
「と、とにかくジオ。早く村まで来てよ。みんな喜ぶ」
「おう。異変はないか?」
ジオが訊いた、
その瞬間に――
どくん。シグリィの鼓動が強く打つ。
ハヤナが曇った顔をする。
「それが……」
どくん。
どくん。
「何かあったのか!」
ジオがハヤナの元まで駆けていき、ハヤナの肩をつかむ。
ハヤナはためらいがちに――うなずいた。
どくん。どくん。どくん。
鼓動が早くなっていく。何かを訴えるように早く、早く。
まばたけば青い光。目の前を通り過ぎていく。
落ちた場所は、
この島のはずで、
「――数刻前に、また一人住人が増えたんだけど」
ハヤナは口を開いた。
住人が増えた。それはつまり、《印》がない人間がこの島に到着したということ?
「その子が……その」
どくんどくんどくんどくんどくん
聞こえてくる、誰かの声が――
彼女をお前が救って
彼女はお前を救うだろう
「その子、記憶喪失なんだ」
ハヤナの言葉が、風に乗って届く。急に、強く草花を散らすように吹いた風。
――運命が、近い。それをまだ、少年は知らない。
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