リーディナが死んだ。
――そんなはずがない。
周りが敵ばかりのこの状態で、誇りを保つことは精神力の限界に挑むようなものだった。
「ねえお姉様」
城門方向、つまり背後から現れた妹は、自分のすぐ傍まで歩み寄ってくると、囁いた。
「……お姉様もわたくしたちの仲間になればいいのよ? お疲れでしょう。とっても楽になれるわよ?」
「……うるさい……」
「お姉様、お苦しいのでしょう? お父様のことで」
「……うるさい」
「だって、お姉様がしてしまったことはこの国においては死者を冒涜すること、その上国王陛下の魂、それはひいては国民全体を裏切る――」
うるさい!
怒鳴ったつもりが、声にならなかった。
のどが震えていた。もう、口ものどもからからで。
クローディアの告げた言葉が、体中を熱して冷やして滅茶苦茶にする。
ふふ、とクローディアは不敵に微笑んで、
「罪滅ぼしはしましょうね、お姉様。もうあなたはアプロス神の申し子ではない――」
妹の手が、
さらっと、自分の髪の毛に触れていった。
とたんに、すとんと何かが抜け落ちたような気がした。
目の前で、不思議な現象が起こり始める。
クローディアの黒真珠のように美しかった髪が、赤く……紅く染まっていく。まるで自分の髪の、よう、に、
自分の……?
はっと自分の髪を一房取って凝視し、ラナーニャは瞠目した。
色がない。
いや、灰色だ。
自分の髪に……あの紅色がない。
くすくすとクローディアが笑った。いまや妹の髪の方が紅色に染まった。
そして、
「こちらももらわなくてはね……お姉様、交換しましょ」
顔を引き寄せられる。
その黒い瞳に吸い込まれそうになる。だんだんと桃色に変わっていく妹の瞳。自分は? もう確認するまでもない。
「お姉様。……これは、罪滅ぼしよ」
囁かれる、悪魔の声。いや、神の声だろうか。
頭の中が真っ黒に焦げてしまいそうで、ラナーニャは地獄の入り口へ行くための洞窟に入り込んだのかと錯覚する。
しかし、ちりちりと痛む意識の底で――
ひとつだけ疑問。
なぜ?
なぜクローディアは、そのことを知っている?
オーディやクローディアの言葉を信じるなら、それはリーディナがスパイだったからだということになる。
たしかにリーディナは、神殿にまで入ってきた。自分が――アプロス神像の前で告げたことを、聞いていた可能性は、ある。
そこまで考えて、ラナーニャは頭を振る。自分はリーディナを信じると決めた。仮にリーディナがあれを知っていても、他人に告げ口をするはずがない。
では他に誰が?
他に……誰かがいたか?
そう考えたその刹那、彼女の心を一気に浮上させる声が、暗い世界に一条の光のように差し込んだ。
「姫様。ご無事……ですか」
クローディアが形相を変えて、ばっと振り向いた。
ラナーニャは体が震えて動けなかった。
喜びで体が震えて、動けなかった。
乾いていた口を何度もぱくぱくさせて、ようやく紡いだ名前――
「リー……ディナ」
「私は無事です、我が姫」
凛として前庭を通った声。
この地獄のような惨状の中、まるで奇跡が降ったかのような鮮やかな色を伴って――
ラナーニャの体が動いた。まるで導かれるように自然に。振り向くと同時、地面を蹴っていた。その人に向かって。
リーディナ、リーディナ、リーディナ……!
小さな体の長姫を、抱きとめた真実の家臣。
「姫。我が姫。よくぞ……誇りを忘れずにいてくださいました」
抱きしめてくれた腕に力がある。ああ、やっぱり私のリーディナは強い――
そう思ったラナーニャは、ふいにリーディナの背中に回した手にねっとりとした感触を覚え、ぎくりとする。
「リーディナ、け、が、を」
「……さすがにあの数は辛かった。それに」
まさか――とリーディナはなぜか微笑みながら、ラナーニャを見下ろした。
「いるとは思っていなかったのです。……玄武の者が、クローディア様以外に」
「なに……?」
リーディナの表情が険しくなる。その鋭い目つきは、ラナーニャではなくまっすぐ前に、そう、クローディアに。
「まさかあのような者を抱えているとは。抜け目がないことですね。申し訳ありませんが、彼には人肉種の餌食となって頂きました」
クローディアのつまらなそうな声が聞こえる。
「……あの男もやられてしまったの。神殿での失敗といい、弱いことね」
誰のこと
問おうとしたラナーニャに、一人の人物の記憶がかぶさってくる。
いや、それは記憶とも呼べないほどの――小さな。なぜならその人物とラナーニャは、一緒にいた時間こそそれなりでも、一言も言葉を交わしていない。
そう、その人物とは。
あの神殿に向かう小舟に、ともに乗っていたもう一人の人物。
――船頭。
顔さえろくに見なかったその男の印象。小男。無口。まるで印象がない不思議な男。
あれが玄武の者? 神殿での失敗?
そう思った瞬間、ラナーニャは思い及んで目を大きく見開いた。
――聖水をくぐりなさい。
――そうすればあなたの罪は赦される。
あの声。あの声は――!
クローディアの方を振り返りたかった。
けれどできなかった。全身はもう限界を突破したように、震えるのをやめていた。
震えない。動けない。もう何も、できなくなったように。
その姉姫の後姿を、クローディアは見たのだろう――
ほほほほ、と貴婦人の笑みをこぼし、
「そうよお姉様。お姉様の考えている通りよ。うふふ、ショックを受けたかしら?」
「クローディア様!」
「うるさいわねリーディナ。この死にぞこない」
「クローディア、言葉が悪いぞ」
ここに至っても、オーディがクローディアの言葉遣いを直している。
そんな場合ではないだろうに。
いや――彼にはそれだけの余裕があるのかもしれない。
そう、あるのだろう。
――姉姫暗殺をすでに、ひょっとしたらずっと前から計画していたこの――弟と妹と、叔父は。
「………っ」
動けなかった時間を通り過ぎ、次に襲ってきたのは、どうしようもない気持ち。怒りではない悔しさでもない、これは――ただ、悲しみ。
リーディナにしがみついて離れられない。こんな無様な姿、リーディナが許すはずはない。
しがみついたリーディナの背。血がにじみでて止まらない。その血に手を浸すのが、何よりの罪滅ぼしに思えた。
リーディナは――
「……姫様」
そっと、ラナーニャの髪を撫でて。
そしてなぜか――
高らかに。
歌いだした。
それは昔のものがたり
ある島に うつくしき女神おりたって
太陽の光あびながら
島の草々と話をしていたの そう話をしていたの
それはうつくしき女神の
秘密のひととき 秘密のひととき
太陽の光あびて
その紅い髪輝いていたの そう輝ききらめいて
桃色の瞳は
いつも優しくて
桃色の瞳は
いつも穏やかで
草々は女神の傍にいるだけで
そう傍にいるだけで 幸せだった
やがて女神が帰ろうとしたときに
彼女を呼び止めたひとこえ
わたしとも話してくれませんか どうか一言でいい
振り向いた女神は 穏やかな桃色の瞳
いいですよと微笑んだ そう優しく微笑んだ
それが運命の始まり
ひとと呼ばれるその青年と
うつくしき女神は恋に落ち
けれど結ばれることはない
彼はひと 彼女は神 結ばれることはない
悲しみの中で
女神は彼に背を向けた
彼の必死に呼ぶ声が
彼女の紅色の髪を引いていたのに
女神のこぼした涙 なぜか女神の色と違うブルー
その美しいブルー
女神は島の周りに散りばめた
それは昔のものがたり
女神の思し召し すべてを忘れた男
ある島に人々を集め
一国を築いた そう王となった
その島を囲むブルー
女神は今でも男を護ってる そう愛はそこにあるから
それはシレジアの民謡。
あまりにも場違いな行動に、さしものクローディアやオーディたちも呆気にとられている。
歌い終わって、リーディナは言った。
とても優しい声で。
「この歌から……ブルーパールという言葉が生まれました。我が姫、あなたは生まれたとき、アプロス神の特別な加護を受けた者であるようにと、亡き父王が名づけられたそうですよ」
「リー……」
「さあ」
とん
リーディナが軽く押しただけで、風に吹かれた草のように簡単に、ラナーニャの体は家臣から離れる。
ぬくもりがなくなっていく。支えがなくなっていく。そのまま倒れるかと思ったラナーニャの体に、
不意に、かかったのは浮力。
「お許しください、姫様」
リーディナが胸元で両手をかざしていた。
足元がふわふわと浮いている。なんだろうこれは。訳が分からずにいるラナーニャの背後で、クローディアが「よしなさい!」と叫んだ。
「そんなこと、できるわけがないでしょう! 今この城はわたくしの結界内よ!」
「クローディア様。あなたはまだお若い」
リーディナはふふっと微笑んだ。
「――人は、頭を使うことができるのですよ」
「何を……っ」
歯ぎしりをするようなクローディアの声。走る足音が聞こえる。けれど途中で、
「きゃっ!」
クローディアが何かにぶつかって、弾かれたような音がした。
「クローディア!」
弟の声がする。「どうしたクローディア!」
「この女……!」
妹の、悪鬼もかくやの壮絶な声。
返すはリーディナ、落ち着き払った。
「朱雀にも……やろうと思えばできることです。うまく……いけばですが」
ラナーニャは振り向こうとした。けれど体が動かない。空中に浮かんだまま動かない。
「お姉様は渡さないわ!」
何を言っているんだ? 何を――
口を開こうとしたが、声が出なくなっている。
「姫様、よくお聞きください」
リーディナの手が発光を始める。
同時にラナーニャの体の周辺も。
「……この国の王はあなたです。あなたにしか無理なのです」
そんなこと、
――反論したくても、声という声を封じられていて。
「ですがあなたが王となるにはまだまだ修業が必要でしょう。何より」
今、ここから、
「逃げ出すことが――大前提、です」
リーディナ、リーディナ
何度も名を呼ぶのに。唇がかたどっていること、気づいているだろうに。
リーディナは微笑むのだ。残酷なほど優しく。
「どうか……いつか、この美しい島国に戻ってきて。狂いを正して……私のたった一人の主」
―――!
全身で叫んだ。かの人の名を。
大切で大切で大切すぎる人の名を。
自分の体に何かの力がかかる。視界がぶれる。揺れている。ものすごい振動。視界からあの人の姿が、あの人の姿がああ視界から視界から視界から、
最後の――
瞬間に。
……見えた、のは。
クローディアの放った炎に、―――
ラナーニャの目尻から
一筋の、ブルー
その日、青い光が飛んだ――
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