月の中央に暗黒の扉が開くのを、彼女は窓辺から見ていた。
「月闇の扉が開いた……!」
自分で発した言葉に、自分の体が反応して、ぶるっと震えが足下から駆けのぼってくる。
ぞわぞわと体中に広がる不快感。
それは恐怖ではない。二年に一度行われるこの儀式には、いい加減慣れた。怯えることは……ない。
ただ、恐ろしい事態の予兆であることは間違いがなかったから、また大陸は痛みを感じるのかと、心のどこかが泣いている。
窓辺から見える景色。
左側は森だった。ざわざわざわと、闇の帳に混じりこんだ春の緑が、立ち騒ぐ風に怪しく揺れる。まるで彼女の心の波の音のようだ。
眼下を見れば、街が見える。この街の眠りは早い。はたして月の異変に気づく者はいるだろうか。
いや――分かっている。
「私の役割……だな」
ふいに吹き込んできた風が、彼女の腰までの長い髪を乱暴に荒らした。
とっさにばたんと窓を閉めた。そしてそのままカーテンも閉めると、髪の毛を手ぐしで丁寧に梳いてから、同時にクローゼットまで歩き出す。
今は寝巻き。そしてこれから着替えなくてはならない服装は……
――リンリン、と呼び鈴の音がした。
彼女はクローゼットの中身を吟味するのをいったんやめて、扉へと向かった。
扉の内側には大きな鈴がついている。大抵の国はノッカーだろうが、この国、シレジアにおいては呼び鈴が普通だった。
「私だ。誰だ?」
「姫様」
聞こえてきたのは、お付きの侍女のリーディナだった。まだ二十歳と若いリーディナは、しかし見る者を油断させない不思議な落ち着きをまとっている。
リーディナの声が聞こえてきた瞬間に、彼女は悟っていた。
「父上がお呼びか」
「その通りでございます。お着替えをお手伝いいたします。失礼してもよろしいでしょうか」
着替えくらいは自分でできるが……そんなことを思って困った顔をしながら、
「分かった、今鍵を開ける」
と彼女は返事をした。
リーディナの手を借り、着替えを行う。
リーディナはてきぱきとしたものだった。女である自分の主が、コルセットを使うようなドレスを嫌うことをよく分かっているから、今は緊急事態につき一刻も早く済ませなくてはならないことも考えて。
やがてリーディナの主が着た服は、スカートではなかった。見かけは男性風――それも、大陸西部の軍事国家のような服だ。
ただし、男性と見るには彼女は少し背が低すぎた。
着替えを終えると、次は鏡台の前に座る。リーディナはいつの間にかブラシを手にし、さっさっさっ、と長くなめらかな主の紅のように鮮やかな色をした髪を隅から隅まで梳いていく。
鏡に映る自分の姿。ふと、前髪のほんの一部が、紅色ではなくなっているのを見つけた。
「……リーディナ」
「なんでしょう姫様」
「いつもの通り、その日の夜の内に出立し、神殿で祈りを捧げるのだな」
「ええ、それはもちろん。民とわたしたちを安心させて下さいませ」
「神殿に渡り祈りを捧げるのは重労働だ。私がそれをやるのにやぶさかではないが」
膝に置いていた手を、ぎゅっと拳に握った。
「……私で、いいのだろうか」
「なにをおっしゃるのです」
「クローディアの体が弱いのは分かる。しかし私はクローディアに行かせるのが正当なのではないかと思うんだ」
自分に比べると、少しきつい目鼻立ちの妹を思い浮かべて、「精神力なら、クローディアが負けるはずはない」
とつぶやく。
「現にこの十年間というもの、私が行っていたから、神は願いを聞き届けては下さらなかったのではないのか?」
しゅっ、しゅっ、とブラシの音がする。忙しく彼女の髪をまとめている。
「おかしなことをおっしゃらないで下さい」
リーディナは冷静な中にも、少々の怒りを含めていた。
「あなた様が朱雀神アプロスの申し子であることは、誰もが認めることです」
「申し子……」
その言葉がとてもとても違和感をもって心に響き、視線が下に落ちる。
膝の上の拳が見える。日頃の武器の鍛錬のために、お世辞にもきれいではなくなった両手。
「しかし私は、力を頂けなかった……」
開いた両手を見下ろし、たこが出来た痕を見つめ、
「人肉種に対抗する力が欲しいと、必死で戦うすべを身につけてきた。父上は、私に自衛手段として武器を持たせたようだが」
「ええ、あなたは強くおなりです」
「……私は人を救うために強くなりたい。力を頂けなかったのが恨めしい」
リーディナの手が止まった。
「力は経験と申します」
その言葉に、ふふっと苦笑をもらす。
「例えばここに何年も――そうだな、旅人守護師か、護衛衆か、あるいは旅人そのものである人物がいたら、私は平伏するだろうな」
リーディナの手が動き出した。ブラシを置き、後ろ髪をまとめると、手早く赤いリボンでくくった。
終わると同時、女主人は立ち上がる。
「ありがとうリーディナ」
「さあ姫様。お急ぎ下さい」
「ああ」
片手に燭台を持ったリーディナが部屋の扉を開け、主はそこを通って廊下へ出る。
ギッ、とわざと鳴るようになっている音を立てて、ドアは閉められた。
父に会うためには謁見の間ではなく、父の寝室に行かねばならないらしい。
「珍しいな。急ぎとは言え、これは重要な問題だ。いつもは謁見の間にいらっしゃるじゃないか」
この国の男性は女性と違い、髪とドレスの世話に手がかからない分、若干着替えが早い。たとえ飾り立てた正装でも、差がつくのだ。
リーディナは早足で廊下を進む。燭台の炎が揺れ、二人の影が伸びたり縮んだりする。
「陛下は」
リーディナは乱れのない声で言った。
「お加減がすぐれないご様子です」
「なんだって?」
まさか、月闇の扉が開いたせいか。と、そう尋ねるわけにもいかず、彼女はただ侍女についていく。
やがて、この建物の中では、謁見室の間の扉の次に大きな扉が目に入った。
片側に紐が垂れ下がっているのは、もちろん鈴を鳴らすためである。
リーディナがそれに手を伸ばそうとするのを制し、こほんと咳払いをしてから、彼女は呼び鈴を鳴らした。おそらく出るのは、父に付き添っている侍女か誰かだろう――
「誰だ?」
しかし、返ってきたのは若い少年の声。
ああ、と納得し、
「オーディ。私だ」
「ああ、姉上。今鍵を開けましょう」
弟のオーディ・ブラッドストーンは扉の向こうでそう言うと、
「ちなみにクローディアはまだ着いておりませんよ」
といたずらっぽく付け足した。
妹のクローディア・ハウライト・アプロスを待っている暇などない。オーディに扉を開けてもらうと、彼女はまずオーディに視線をやった。
オーディは黙って掌をすっと流すようにして、促す。
絨毯は足音を極限まで吸収する。この部屋には、絨毯が少なかった。この国に、王を暗殺しようなどというだいそれた考えを持つ者が現れたことなど、歴史上ないのだけれど。
数人の侍女たち。侍女長までいる。眉をひそめながら、進む。
弟の手の指が示す先に、天蓋のある大きなベッドがある。下りた天蓋布は、この国のシンボル朱雀神を描いたものだ。
天蓋布の前で、彼女はぴっと背筋を伸ばした。
そうすると、背の低い彼女でも威厳があった。
「父上。ラナーニャ参りました」
少しの間があった。
なぜ入れてもらうのに時間が必要だったのか、そのときはまだ分からなかった。
オーディが傍らに立ち、
「父上! 姉上がおいでですよ!」
声を張り上げた。
仰天する当の姉の前で、弟は平然と、
「開けてもよろしいですね!」
と断ると、両手で天蓋布を開いた。
そして現れた、現シレジア国王の顔――
その瞬間の驚きを隠し通せたのは、第一王女として焦るなかれ、誇りあれと教えられていたゆえだったのだろうか。
父の顔は頬がそげおち、目がおちくぼんで、まるで別人のようだった。
体はかけ布がかけられていて分からなかったが、腕が痩せ細っている。まだ四十歳前。自慢の黒髪が、抜け落ちている。
父だと、かろうじて分かったのは、瞳の色のおかげだった。父は右目が紅、左目が黒のオッドアイだったのだ。
けれど――
信じられなかった。これが、父?
大陸唯一の南国の島国、シレジア。その国王?
「父……上」
なぜだ? 頭の中でぐるぐると記憶が回る。朝食をともにし、朝の会議にもともに出席、昼食もともにし、今日は特別に昼稽古にもつきあってもらった。
しかし――そうだ、夕食に、父は出てこなかった。
昼から夜の……そんな短時間に?
「今の父上は、目も見えず、耳も遠いのですよ姉上」
おごそかに、オーディが言った。「誰かに毒を盛られたとしか思えません」
「毒……だと?」
「先ほどから繰り返し吐いておられます。いえ、もう吐くものは残っていらっしゃらないようですが……」
毒?
こんな作用のある毒?
なぜ、なぜなぜどうしてと考えていたそのとき、部屋の呼び鈴が鳴った。
今度は侍女長が出て行く。そしてすぐに、扉は開けられた。
「お父様!」
思考が断ち切られた。
勢いよく飛び込んできて、あっという間に自分とオーディの間に割り込んできたのは、オーディの双子の妹クローディアだった。
父の姿を目にして、ああ、とその場に崩れ、
「嘘よ、嘘よ、あのご立派なお父様がこんな風に……嘘よ!」
「クローディア……」
「姉様、ねえ、嘘よね?」
すでに泣きながら訴えてくる妹に、何も言ってやることができない。自分も――信じられないのだから。
部屋には次から次へと人が入ってくる。オーディの指示らしい。天蓋布を取り払い、政府高官たちが、ずらっと並んで王のベッドの周りを囲む。
そのとき。
目の前の、変わり果てた王が動いた。
「ラナー……ニャ。ラナ……」
はっとし、慌てて父王の手を取った。その手のひんやりとした冷たさに、体が芯から凍るかと思った。
しかし、王のオッドアイは天蓋を見上げたまま、優しく微笑んでいた。
「お前は……我が国の守護神の……申し子。強く、誇り高くあれ、ラナーニャ……」
「父上? 父上!」
「よいか皆の者……」
国王は、最後の最後で、その威厳ある声を取り戻した。
「その耳でたしかに聞け。我が名において、この国の世継ぎはラナーニャ・ブルーパール・アプロスに決定すると、ここに宣言する」
その声を、
弟が、妹が、政府高官たちが、侍女長が、その他の侍女が、皆が聞いた。
やめてくださいと、誰よりも耳をふさぎたかったのは自分に違いない。
その言葉は、王自身が死を覚悟した証拠だったから……
ラナーニャ・ブルーパール・アプロス。
――十六歳まであと二週間と迫った、春の夜。
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