シレジア島からさらに南に行った先の孤島――
そこにあるのが、女神アプロスをまつった神殿である。
小さな飾りっけのない神殿で、とても大陸を護る四神の一人のために建てられた神殿とは思えない。ラナーニャも最初に来たときに、ともにいた父につい「アプロス様、怒らないか?」と訊いてしまったものだ。
アプロス神と言えば、美の女神でもある。せめて神殿をそれらしく飾ったらどうかと、おそらく今までに何人もの人々が言ったであろうことを、父に進言した。
しかし、父は否と答えた。
「アプロス様は、そういうことは好まないのだ。ラナーニャ、お前が好まないのと同じように」
自分の嗜好を持ち出されると余計に不満になる。
自分はアプロス神ではない、とすぐに反論した。アプロス神は女性の鑑ともいえる神で、自分のように男性のような行動を好む神ではないはずだと。
しかし父は、幼いラナーニャの頭に大きな手をのせて、ゆっくりと諭した。
「女性の中の女性だからこそ……飾る必要がないのだよ、ラナーニャ」
あの頃はその言葉の意味がよく分からなかったが――
「今なら、分かる気がする」
ざぶん、ざぶんと水面が跳ねる音を聞きながら、ラナーニャはリーディナに語っていた。
「本当の美とは、きっと飾ることではない。本当の女らしさとは、女性らしくふるまうことではない。……そういうことなんだろうな」
リーディナは黙って聞いている。
反対に、陽射しに照らされキラキラ輝く水面が、返事をしてくれているようだ。
ラナーニャは今、小さな小舟に揺らされていた。
神殿に行くときの決まりごとなのだ。神殿の近くは神域。大仰な船で行っては神の気に障る。
せいぜい五人乗るのがやっとの舟に、ラナーニャ、リーディナ、そして船頭のたった三人。
リーディナは、実は護衛としてこの舟に乗っていた。彼女は魔道士の多いシレジア国でも五指に入る、強力な魔道士なのである。
ラナーニャとしても、リーディナが一緒なのはとても心強かった。
――朝一に出立した。まだ太陽は中天にほど遠い。今は初春、南国のシレジア人としては少し寒いかもしれない。
リーディナもそれなりの正装をし――正装をするのは、暖をとるためでもあった――ラナーニャの傍から離れない。
シレジア王族が亡くなるたびに、シレジアでは巫女に定められた人間が御魂送りを行う。
神殿での御魂送りは、丸一日を要する。
王城のことはヴァディシスと二人の弟妹、そして政府高官たちに任せてきた。元々ラナーニャは国政にあまり関わってこなかった、いや、関わらせてもらえなかったから、不便はないだろう。
(その私が……王?)
父王の遺言が、胸に響く。最後の力を振り絞って宣言をした父。
長女の名を、高らかに。
ラナーニャは微苦笑する。今までろくに国政に携わらなかった自分に、まっとうな王として働けるはずがないではないか。
きっと反対者が出る。たとえヴァディシスが後見人となってくれても。
最後の最後になって、父王は賢王としての才能を失ってしまわれたのかもしれない。そんな事実が悲しい。
(王でなくていい。私は)
「私は、兵士になりたい」
ラナーニャがつぶやくと、リーディナの眉がきっと寄るのが分かった。
「姫様、たわけたことをおっしゃらないで下さい。あなたは王なのです。宣言がなされた瞬間から王なのです。それをしっかり胸に刻んで下さいませ」
「まだ、周りの者の賛成は耳にしていないよ」
「ヴァディシス様が後見人になって下さるとおっしゃっているではないですか」
「そうなんだが……」
ラナーニャにはそれが腑に落ちない。あの、国政には関わりたくないと逃げ回っていた叔父が、なぜ今になって自分の後見人に立候補する?
そう口にすると、リーディナはぴんと背筋を張って、
「ヴァディシス様は昔から、あなたをかわいがっておいでです。あなたを放ってはおけないのです」
「そうなのだろうか」
「それにヴァディシス様も、昔はしっかりと国政を学んでおられた方。心配なさることはありません」
リーディナに説得されると、昔からラナーニャは弱い。ぐうの音も出なくなってしまう。
そうなのか、とつぶやいて、視線を落とす。
碧い碧い色が広がっていた。
手を伸ばせば、海はすぐそこだ。透き通るような、シレジア自慢の海。
じっと見つめていると、吸い込まれそうになる。知らず知らず手が伸び、自分は母なる海に滑り込んで、そしてその中を遊泳するのだ。
そこでは何もかも……胸のわだかまりもきれいに流れていく。
そして悲しみも。
ぎゅっと胸に手を当てた。
「父上……」
胸の奥が痛い。腹の奥も痛い。涙が出そうなときの予兆。
ぐっと押し殺した。
自分は巫女。心を静かに保って、御魂が安心して昇れるように祈る巫女……
「姫様、神殿です」
ゆっくりと目を上げた。
小さな島がある。小さいのに、とても緑豊かな島がある。
そしてそこには神殿がある。
――神殿以外、何もない。
舟が神殿に乗りつける。
ラナーニャは船頭にエスコートされて、舟を降りた。
続いてリーディナが。
船頭は、これ以上先には来ない。ここから先は、許された者しか入れない。
リーディナは護衛として、国から特別な称号をもらい、神殿に入ることも許されている。
ただしそれは緊急事態のときだけで、通常入れるのは巫女だけだ。
神殿の入り口には像が建てられている。
波打つ長い髪。ぼかされた表情が、却って神秘的だ。
細い腕を、誰かに差し伸べるように伸ばしている。
美の女神アプロスは、慈愛の女神でもあった――
そして何より特徴的なのは、この像には本物の植物の蔓が巻かれているということだった。不思議なことに、誰が手入れしているわけでもないのに、生い茂りすぎて像が埋まってしまうということはないということだ。
神殿の入り口で、リーディナはまずその像に礼拝した。
その後、ラナーニャに向かって跪拝する。
「姫様、神殿内ではお気をつけて」
「ああ」
微笑んだラナーニャの足下を、ふいに通り過ぎたのは小さなリス……
(こんな小さな島にも、生命は息づいている)
青々とした周囲の植物と、それにひそんでいる動物たちの息吹を感じて、ラナーニャは目を閉じた。
(この島には、人間だけがうかつに入ってはいけないとされている)
人間だけが、別種なのか。
――人間が主のようにふるまっている大陸、そして母国シレジア島を思う。
そこにも、人肉種という、人間最大の敵がいて。
ラナーニャは瞼を上げ、身を翻し扉のない神殿の入り口をくぐった。
(神よ、なぜなのでしょうか)
問いは絶えることがない。絶えるためには、人間は考えるということを止めなければならないだろう。
(なぜなのでしょうか……亡くなった人々がたどり着く先は、月闇の扉の中)
人間には思考があり、知恵がある。そのために生まれてくるのはいつだって狂おしいほどの悩みだ。
(だというのに、月闇の扉が開く時――)
世界は怨念に包まれる。
――それはまさしく、月闇の扉へと送られた人々の魂。
そして魂は変貌し、獣の形を取って地上に降り立つ。
人間の血肉を求める猛獣へと。
なぜなのですか、静かに昇ったはずの魂たちが、今度は人間を喰らうために生まれてくる。
月闇の扉が開くたびに。
――月闇の扉 開く時――
世界は哀しみに包まれる――
何もない、石造りの神殿。
なのに、神々しい。
一人の巫女の足音が、カツーン、カツーンと響く。それが神からの声に聞こえるのはどうしてだろう。
やがてたどりつく、神殿の奥。
巫女はすっと跪拝する。
ラナーニャの前に、鎮座する一体の像。
天井にいくつも張られたステンドグラスを通して通る太陽光が、像を鮮やかに照らす。
入り口に建っていた像に似ているようで似ていない。なぜならこちらの像は、大切な何かを抱くように、腕を曲げている。
そして顔も、それを見下ろすように。口許が微笑んでいる。
まるで、生まれたばかりの赤ん坊を抱いて喜んでいるようなさまだ。
――この神殿に来るのは、王族が亡くなったときだけではない。月闇の扉が開いたときも、行わなくてはならない正式な儀式と定められている。
けれどそのたびに、巫女としてこの神殿に来てこの像を見るたびに、ラナーニャはさらに疑問を抱えるのだ。
人の死につながるときにこの神殿に来るというのに、
この神はいつだって、生を喜んでいる。
「アプロス様……」
ラナーニャの囁く声さえ、この神殿では大きく響いた。
祈らなければならない。
けれど、肩が重い。それは衣装の重さか、それとも、
「教えて下さい」
何を言っている? 祈らなくては。天に送ってくれる神のあの腕に、父の魂を、
「父王は、あの扉の中に逝くのでしょうか」
送らなければ、御魂を送らなければ、
「そうして二年後には、獣となって地上に降り立つのでしょうか」
違う違う違う静かな心で何も乱れのない心で大切な父王が安心して逝けるように、
「もしそうなら――」
ああ、心がうまく動かない。
奥底にたまっていた思いが、何よりも強い思いとなってあふれてくる。
「私は、父の魂をあなたの腕に預けたくはない」
――なんてことを。
シレジア中からの、非難の声が、聞こえるようだった。
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