「姫様!」
鋭い声が飛んできて、ラナーニャは緩慢に瞼を上げた。
「姫様! 姫様……!」
体を揺さぶられる。呼ぶ声は張り詰めていて、ラナーニャはつい問いたくなった。何をそんなに恐れているんだ?
しかし理由はほどなく知れる。
体が重い。とても重い。
さらには――とても寒い。いや、冷たいと言った方が正しいのか?
それでいて、近くにはまるで火があるかのようにぽかぽか暖かい。
なんだこれは。急に体が芯から震えて、ラナーニャは近くのぬくもりにすがりつき――ようやく相手が、リーディナだと気づいた。
「リー……」
「意識がお戻りになられたのですね」
リーディナが、視界の中でほっと笑った。
ラナーニャは必死で自分の置かれている状況を理解しようと努める。自分は今、リーディナの腕の中にいる。体の近くにふよふよ浮いている火は、リーディナが起こした魔術の火だ。それが三個。ラナーニャを囲むようにして浮いている。
なぜ体が重たいのか? 理由のひとつは、衣装がぐっしょりと濡れていたためだった。水気をすっかり吸って、それが遠慮なくラナーニャの体にのしかかっている。
髪もまるで地面に引っ張られるように重い。ということは髪まで濡れているのか。どうりで頭の辺りがどうしようもなく不愉快な心地なわけだ。
そして……
本当の意味で体を重くしているのは、おそらく疲労。
何度もまばたきをしてそう思ったとき、自分で眉をひそめた。疲労? なぜ?
自分は今どこにいて、何をしていたのだったか。
「姫様? ラナーニャ様」
リーディナが珍しく主の名前を呼んだ。彼女は妙なこだわりで、自分の主だから決して名を呼ばないと決めていると言っていたのだが。
「ラナーニャ様。あなたはラナーニャ・ブルーパール・アプロス様です。……お分かりですか?」
どうやら記憶を確かめるためらしい。
「ああ……」
ラナーニャはリーディナの腕の中でぐったりとしていた。しかしすぐに我に返り、慌てて体を起こそうとした。
それを、リーディナが押しとどめた。
「まだお休みになっていてください。姫様」
「わ――私はいったいどうなったんだ?」
「やはり覚えてらっしゃらないのですね。ここはアプロス神殿ですよ」
ああそうか。自分は父王の、
――御魂送りに――
急に意識が鮮明になった。そうだ、自分はアプロス神殿に亡くなった父王の御魂送りにやってきたのだ。そして、
「わたしが神殿に飛び込んだときには、あなたは聖水に浸かって」
ラナーニャは目を腕で覆った。
リーディナが慎重に尋ねてくる。
「……何をしていらっしゃったのですか? 何が起きたのですか?」
――なぜ、聖水の場に浸っていらっしゃったのですか? まるで女神が眠るように、やすらかな顔で――
そんなリーディナの声が、聞こえる気がする。
覚えている。
自分は聖水に浸って、浮かんでいたのだ。目を閉じ、まるでそのまま入水自殺でも計るかのように。
アプロス神殿には、人が二人ぐらい並んで入れるほどの直径の聖水場がある。そこで。自分は。
――聖水をくぐりなさい。
――そうすればあなたの罪は赦される。
「あれは……あの声は……」
ラナーニャはか細い声でつぶやく。
「アプロス神だったのだろうか……」
分からない。分からない。
父王の御魂を、アプロス神に渡したくないと言ってしまった次の瞬間から頭がぼんやりして、声が響いてきたのだ。どこからともなく。
男性のものか女性のものかも分からぬ声が。
「アプロス神は……怒っていらっしゃるのか……」
「姫様、お気をたしかに」
リーディナがもう一度主の体を揺さぶる。
揺さぶられると、重い体を再確認させられて、とても辛かった。けれど弱音をリーディナの前で吐きたくなかった。
こんな失態を犯して、これ以上無様な姿は見られたくない。
ラナーニャは渾身の力を体にこめた。そして一気に体を起こした。
「姫様!」
案の定、ふらっとめまいを起こした。けれどそれが何だと言うのだろう。
「もう大丈夫だ」
自分を心配する人に、そう微笑みかけてあげられることの尊さ。喜び。
自分は幸か不幸か死ななかった。生き延びた。
ならば、憂鬱な表情よりも笑おう。
「それにしてもリーディナ」
髪が吸った水をしぼりながら、ラナーニャは傍らで魔術の火を増やしているリーディナを見た。
「どうして神殿に入ってきた? 緊急事態だと、よく分かったな」
「ええ、ブルーパールが」
「ブルーパール?」
リーディナはようやく厳しい顔から微笑んで、衣装の中から何かを取り出した。
「……島の波打ち際に、打ち上げられていたのです。これが」
「―――」
リーディナの掌にあったのは、碧い真珠――
シレジア海にしかない、シレジアでさえ滅多に見られない、宝石。
まさしく海の色をした真珠。真っ青にも見える。それでいて光に当てると向こう側が透き通る透過性を持つ不思議な。
空の色とはたしかに違うこの真珠の名を、ラナーニャは頂いている。
しかしそれにしても……
ラナーニャは不審に思って、リーディナの手の内の奇跡の石を見た。
「なぜ島の波打ち際などに打ち上げられるんだ? この島の下に青貝は生息していたか?」
「それが、いないはずなのですよ姫様」
だから。
波打ち際でこれを見つけた瞬間、この真珠の名を持つ自分の主の身に、何かがあったと悟った。
ひとしきり髪をしぼり終わって一息ついたラナーニャに、リーディナはぴんと背筋を伸ばして、
「ご無事で何よりです、姫様」
ラナーニャは苦笑する。
「お前が入ってきてくれなければ、私の身は危なかった」
「わたしは何があってもお護りします。このブルーパールがわたしの目に入ったのも、きっと神の思し召しです。姫様を助けよと」
「神の……思し召し……」
目を伏せた。ではあの声はなんだったのだろう。
そしてその声に逆らわなかった自分は、いったいどうしていたのだろう。
なぜ、私はいったいどうして――
この神域で、死のうとなどしたのだろう。
こぼれるような吐息は、涙の代わりだったのかもしれない。
「……今、何時だろう?」
「午後五時でございます。儀式は通例夜中の十二時まで行いますが、もうお戻りになられては? 王の御魂はお送りになったのでしょう」
ぴくり、と指先が震えた。
それだけの反応しかなかったことが、逆に不思議だった。
ラナーニャは目を伏せて、
「……ああ」
とつぶやいた。
「ああ……父の魂は、アプロス神の腕の中にお渡ししたよ」
大きな嘘。黒い罪悪感。重い重い――お役目の心。
父よ赦して下さい。もしも逝けずに誰かを恨むのなら、どうかこの私を。
そしてどうか、
神よりたしかな父よどうか、
シレジア国を護って――
リーディナを伴って神殿を出ると、太陽の陽は西で朱色に染まっていた。
キラキラと輝くそれは、ラナーニャの髪の色とよく似ていた。
まるでアプロス神がそこにいるようで。
偉大な空を覆ってそこにいるようで。
ラナーニャは心底恐怖を覚えた。
「早く……帰ろう」
国元へ早く帰ろう。
そして自分は学ぼう。御魂送りができなかったその代償に何をすればいいのか。ただそれだけを。
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