其れは幼き心の傍らに―序章
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 時の流れの一切が、そこにはないようだった。

「人はこの場所を“とこわかの森”と呼ぶ――」

 森。そう、そこは森だ。数え切れないほどの樹木が空間を満たしている。視界に映るのは悠然と揺れる木の葉。支える幹の太さ、地面の茶色の土にさえ、みずみずしさがただよう。
 今は冬――
 木々を包むのは底冷えするような冷たい空気。けれど森の色彩は衰えを知らない。春も夏も秋も冬も、木々かれらは若々しい。
 気温や太陽の陽差し――そんな森の“外”から与えられるものだけが、季節を知らせてくれる。
 変化しない樹木たちにとって、四季の移り変わりというものが、どれほどの意味があることなのか……

「そう……季節は隠されたまま」

 森は静かだった。動物の息吹のないこの森は、真の意味で静かだ。
 彼が足を踏み入れたときでさえ―何にも気づかないかのように、何も変わらずに。
 ――否。

「気づけない―お前たちは」
 それが契約だ。

 豊かな葉が邪魔をして、空はよく見えない。しかし光は完全に遮られることはない。
 木の葉の隙間から、木漏れ日が降る。
 ――朝方の、白い陽光。
 外の光が森の表情を変えていく。
 深い色、明るい色。グラデーションがもっともあざやかなるこの時間――

「昼でもなく、夜でもなく……この時が必要だった」

 彼は森を進んでいく。ゆっくりと。のんびりと。
 誰もこの歩を止められないことを、彼は知っている。
 何とはなしに足が止まった。
 出口の見えない森が、彼の視界に広がっている。無限。永遠。そんな言葉が、脈絡もなく脳裏に浮かび上がってくる。

「それこそがお前たちの望みだった」

 風が吹くように自然に、彼は進んだ。
 やがて彼の耳に触れたのは水音だった。足を一歩踏み出すにつれ大きくなっていくそれの正体は、ほどなく知れた。
 森の源は川。そんな法則は、この森にさえ共通する。
 川は大きかった。流れのゆるやかさゆえに迫力はないが、この場所には似合いだったに違いない。静かな森には、静かな水の流れが相応しい。
 ほとりで足を止める。
 橋などかかっているはずもない。向こう岸は遠すぎる。たとえ越えたところで、その先に広がっているのはやはり樹木の世界だ。
 顔を上向けると、ここでだけ空がたしかに見える。下には川がある。彼はうっすらと笑みを浮かべた。
 まるでこの場所だけ別世界だ。

「それが、お前たちの誤算」

 声に、振り向いた存在があった。
 川の上流からいつの間にか現れたそれ・・は、川のまさしく上空にふわふわと浮いていた。いや、その先がのびて川とつながっている。川からはえていると言ったほうがいいのだろうか。
 奇妙な風体だった。透き通るように透明だというのに、輪郭がたしかに見える。人間の女のような風貌だ。振り向くと同時にゆれたのは、人で言えば髪だろうか。
 まるで水のように透き通ったその何かは、彼に気づいて顔色を変えた。しかし、行動を起こそうとした刹那に――
 彼と視線を合わせた刹那に、凍りついたように動かなくなった。
 ――動けなくなった。

「この川の主は、お前か」
 彼は微笑む。どこか優しげに。
 そして、おもむろに自らの左手を持ち上げた。
 こちらを凝視したまま動けなくなった透明な女の瞳に、かげりが見えた。彼が何をするのかはかりかねたのだろう。
 彼は、次に右手を服の中に入れ――そして出した。
 朝日を受けて、取り出された短刀の鋼がきらりと光った。
 その刃を左腕に当てて、囁くように言葉を紡ぐ。透明な女を見つめたまま。
 ――お前ひとりで充分だ。
 女の瞳に恐怖の色が浮かんだ。その瞳に自分の姿が映っていることを、彼は確信していた。おそらく、彼の姿はこの森ではあまりに異質だっただろう。
 彼の髪の色。瞳の色。
 それは闇の漆黒。
 そしてすべらせた刃によって流れ落ちたのは、あまりにもあざやかな真紅。
 ぽたり、と赤いしずくが川面かわもをうった。
 女が、音にならない絶叫をあげた。それに引きずられるようにして、ようやく森がざわめきだした。
 風に揺らされた音ではない。まるで意思を持つ何かのように強く、激しく。
 森から静寂が消えた。
 神秘の川が、熱く鮮烈な赤に侵食されていく。
 彼は、笑った。





ときが動き出した――
 もう、止めることはできない」




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